第153回
「いのちの格差」を乗り越えよう
第128回≪ますます拡大する「いのちの格差」≫で
≪長寿病弱国・日本の「いのちの格差」は、
とくにガン治療の分野で顕在化していると思います。
その元凶は、ガン治療に関する
「医師サイド」と「患者サイド」の
<いのち>の考え方に対する<格差>です。≫と、
書いたところ、読者のみなさんからたくさんの
賛同や声援のメールをいただきました。有難うございます。
ガンと宣告されれば、誰しもが頭の中が真っ白になって、
ただただ医師の言われるままに、たくさんの検査を受け、
やがて手術や化学劇薬の投与による疼痛と
何度何度も闘わされることになります。
このコラムでは何度も書きましたが、
ガンは、昔の“腹切り武士”のように
勇ましく戦いに挑む「抗戦派」いや「好戦派」になることが
素晴らしい患者だと持て囃されてきました。
また、多くの患者が医師の言われるままに
眦(まなじり)を決して“苦痛治療”に耐えること、
それが“勇気ある患者の姿”と信じてきました.
しかし、やがて、患者がガンと長く付き合ってくると、
「苦痛治療に耐える」=「ガン完治の最良の道」という発想は
どうもオカシイのではないかと思うようになります。
さらに、どうも医師と患者の考え方に
大きな“溝”があると気付くわけです。
多くの患者が、次のような「医師サイド」と「患者サイド」の
<いのち>の考え方に対する、
大きな<格差>に唖然とすることになります。
「どうして医師の奨める
辛い治療を受けても再発転移するのか?」――
「どうして荒治療としか思えない」――
手術と抗ガン剤と放射線の治療だけにこだわるのか?」――
「どうして医師は偏狭なのか?
もっと他の治療のアドバイスをしないのか?」――
「どうして手術、抗ガン剤、放射線の
“標準治療”の手立てを失うと、
“余命半年です。緩和病棟で死を待ちましょう”と
患者を見捨てるのか?」――
「これでは、ガン患者を
“壊れた機械”としか扱っていないのではないか?」――、
「これが本来の“いのちの現場”といえるのか?」――
と疑問と不安にさいなまれるものなのです。
いまの“ガン病棟の醜態”は、
マスコミが他人事のように喧伝する
“ガン難民”といった差別的な用語を云々することで
片付けられるものではありません。
医師と患者の間に広がっている
“いのちの格差”をいかに乗り越えるか?
ここに生身(なまみ)の患者が切に願う
ガン治療の根本的問題点があります。
なんとしても「元気で長生き」したいと願う患者の一人として、
「長寿難病時代に突入したいまこそ、
西洋医学の対処療法に盲従する医師の
“いのちの発想”を改めていただきたい」と、
心底から、僕は申し上げたいわけです。
そろそろ、医師自らが「切る」「叩く」「焼く」の
治療ガイドラインの“不備と限界”を率直に認め、
患者に実情を説明する――、
患者のダメージを深くする
“現行医療の真実”を医師自らが明らかにすべきときだ――
と思っています。
より治療の選択肢を広げて、
患者本位のガン治療に立ち返ることが、
この長寿難病時代の急務ではないか?
「医師のいうことを聞く患者がよい患者だ」という、
偏狭なパタナーイズム(父親主義)を、
まずは医師が捨てることが先決でしょう。
「病気は患者自身が治し、医師は包帯を巻く」という
広い心を持つ――
いわば母親主義を見直すときではないでしょうか?
拙著「ガンを切らずに10年延命」でも書いたように、
医師も患者ももう、西洋モノマネ主義に盲従する
「好戦思考」はほどほどにしたい!
古来から、日本人は「和戦思考」の
素晴らしい知恵を持つ民族でした。
この身体と風土(=身土不二)に根ざした知恵に
“いのち学”の原点があるはずです。
ガン患者は標準治療ガイドラインの
“実験用試験管”ではありません。
ガン患者は「明日のいのちがほしい」
「元気で長生きを続けたい」のです。
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