孔子には「君子は器ならず」とたしなめられたが、子貢は当時の為政者にはすこぶる評判がよかった。魯の大夫叔孫武叔のごときは子貢のほうが孔子より賢いと、王宮で他の大夫たちに言った。それをもう一人の大夫子服景伯が子貢に伝えると、子貢は孔子と自分を宮中の垣根にたとえて、
「私はいわば肩までしかない垣根のようなもので、中の美しさをのぞき見ることができます。ところが、孔子は何十尺もある垣根のようなものですから、門から入るのでなければ、宗廟の美しさも、財宝の数々も見ることができません。しかも孔子の門をさがしあてた人はたいして多くはないのですから、私のほうが賢そうに見えるのも無理はないでしょう」
また、あるとき、叔孫武叔が公然孔子の悪口を言った。子貢はそれを聞くと、
「その誹謗はあたらない。ほかの賢者はたとえば丘陵のごときもので、これを踏み越えることができるが、孔子は太陽や月のようなものだ。とても踏み越えるわけにはいかない。太陽や月がきらいだといって見ないことはできるが、それによって太陽や月のほうが傷つくことはないだろう。悪口を言うほうが身のほど知らないよ」
彼のこの言を伝え聞いた陳子禽は子貢に、
「あなたはなかなか礼儀正しい人だ。どうして孔子のほうが、あなたより賢いはずがあるでしようか?」
「そう軽々しくおっしゃらないでください。ことばしだいで、知者ともいわれ、バカともいわれますからね」と子貢は答えた。
「私か遠く孔子に及ばないのは、天に梯子をかけて登ることができないのと同じようなものです。もし孔子が一国の政治を担当すれば人民の生活を安定させることができたでしょう、先生が教導すれば、人々はたちまち従い、鼓舞すれば、みんなが仲よくしたでしょう。生きたときは栄え、死んだときはみんなから哀しまれたくらいですから、とても私の及ぶ
ところではありません」
孔子が生前、栄えなかったことはじゅうぶん知っていたはずの子貢がこんな誇張をするのは、彼が孔子の宣伝係を一手に引き受けていた関係もあるが、孔子亡きあと、ますます孔子に魅力を感ずるようになったからだと私は考えたい。
孔子が死んだ後、弟子たちは墓のそばに小屋を建てて三年の喪に服したが、子貢だけは六年がんばったそうである。世才にたけた男であったから、その後、魯や衛で大夫になり、官を辞してからは商才を発揮して大富豪になったらしい。
孔子のもう一人の有能な弟子はいうまでもなく顔回である。顔回は子貢より一つ上だが、孔子より三十歳若い。貧乏を売物にする芸術家肌の青年で、その明敏なる頭脳と、異常な学問への情熱と、そしておそらくは最も重要なことだが、その若死のために、孔子にはいちばん強い印象を与えた。
社会人としてははなはだ魅力のないこの男が、なぜあんなにも老いたる孔子の感傷を刺激したのだろうかと不審に思う人も少なくないにちがいない。現に『論語』をはじめて習ったとき、聖人君子と教えられた孔子が「天予を喪せり、喪せり」と繰り返しながら、顔回の死を嘆いた意味が、私には納得できなかった。聖人君子は感情家ではなくて、冷徹な理性の持主だと信じていたからである。
最近になって、孔子の性格分析を試みるようになってから、私にはこの関係がきわめて明瞭になった。感惰家としての孔子を説明する際、私は孔子の顔回に対する感惰を「ほとんど同性愛的」と言ったが、これはもちろん単なる比楡にすぎない。が、そう思いたくなるほど、孔子が若い顔回に心を傾けたのは、実は孔子の弟子のなかで、彼の文学青年的気質を理解しえたのは、顔回ひとりだけであったからではあるまいか。
一を聞いて十を知るような神経質さ、才子多病の名に恥じない肉体的なひ弱さ、自分が崇拝する人間の言は神の啓示のごとく信じて毫も疑わない心酔の仕方―いずれも今日、われわれが芸術家気質の青年にしばしば見いだすところの特徴ではないだろうか。他の実際家たちが迂遠だとして嗤った孔子の文学的知識や礼に対する執拗なこだわり方を、顔回だけは無条件に体質的に受け入れることができたのである。
顔回の孔子に対する傾倒の仕方は、文学青年がその尊敬する芸術家に対する場合の、最も典型的な形であった。『論語』子罕篇には顔回がため息をつきながら、孔子のことをこう言っているところがある。
「仰げばいよいよ高く、みがけばみがくほど堅い。前にいると思って、じっと見つめていると、いつのまにか後ろにまわっている。孔子という人はぐるぐると絶え間なく人をひきつけていく。文学をもって自分の知識をひろめてくれ、放逸に流れることを防ぐために礼を教えてくれる。いつのまにかそのぺースに巻き込まれて、やめようと思ってもやめることができなくなり、自分の才能の限界をはっきりと感じさせられる。しかもなお自分の眼前に堂々と立っているのを見て、これを追いかけようとするのだが、とても及ばない」
この手放しの感激は顔回が子貢のような客観的な批評家ではなくて、「芸術か、しからずんば死か」的、芸術至上主義的甘さの持主だからである。
だから、孔子も顔回にだけは芸術家気質を丸出しにすることができたし、それだけ情熱を燃やすこともできた。他の弟子が仁の本質を聞くと、その場その場で臨機応変の返答をしているが、顔回には礼一点張りである。繰り返していうが今日的な礼儀という意味ではなくて、祭礼、つまり文化的な儀式や制度と解すべき性質のものである。
「仁とは自己を克服して、礼にかえることである。そうすれば天下はことごとく仁に帰服する。だから仁とは他人によるものではなくて、自分のなかから生まれるものである」
「では、仁の眼目はどんなものですか」
「礼にあらざることは見ないこと。礼にあらざることは聞かないこと。礼にあらざることは言わないこと。礼にあらざる行いはしないことだ」
「私はバカですが、おっしゃるとおり実行したいと思います」
そして、そのとおり三ヶ月でもバカのひとつ覚えのように、仁者たらんと志すのである。
こうした顔回の愚者にも似た心酔ぶりは、孔子にとって気持のよいものであったが、同時に物足りなくもあった。
「顔回はわしのためになる男ではない。わしの言うことはなんでも無条件に受け入れる」
と孔子は嘆くこともあった。しかし、結局、若き日の自分の姿をそのなかに見いだすことのできる顔回が孔子にとっては最も愛らしい男であった。だからこそその死に際会するや、声をあげて泣き叫び、しかもそれを隠そうとしなかったのである。
彼は魯の哀公に聞かれたときも、魯の大夫季康子に聞かれたときも、 
「弟子のなかでいちばん学問の好きなのは顔回であります。不幸にも若死にしましたが、あれほど向学心に燃えた男はありませんでした」
と答えている。文学老年の感傷というべきであろう。
孔子の弟子にはこのほかに閔子騫(びんしけん)という孝行息子、冉伯牛という穏健な男、冉雍という生まれは卑しいが、王様にしてもよいようなりっぱな男、冉求という優柔不断な男、宰予という昼間からごろごろ寝ている怠け者、子夏という中庸に及ばない男、子張という中庸をとおりすぎて、「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言われた男、曾子という親孝行者、澹台明滅という容貌は悪いが、清廉潔白派、子游という文才の優れた男、『春秋左氏伝』を書いた左丘明などがいる。
これらの弟子たちはみな一芸一能に秀でていたが、孔子のように幅の広い性格の持主ではなかった。師匠に対する感惰はそれぞれ違っていたであろうし、ある者は「芸術家」としての孔子に、ある者は「実際家」としての孔子に、またある者は「野人」としての孔子に偉大さを見いだしたであろう。その印象がまちまちであればあるほど、孔子は神秘的な存在となり、高い壁に囲まれた宮殿のごとき感じを与えた。
晩年の孔子はこれらの弟子たちから「偉大なる教師」として尊敬されたが、しかもなお政治家としての野望を捨てきれなかった。『論語』の冒頭にある、「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや、友の遠方より来たるあり、また楽しからずや」そして、最も孔子的な考え方だが、「人知らずして恨まず、また君子ならずや」はこのときの心境を言ったものである。
漢学者先生のように論語の第一ぺージを開いて、朗々と口ずさみ、「ウム、いいなあ!」とうなる代わりに、われわれはこの静かなる心境の奥に隠された孔子の胸騒ぐ意欲を見なければならぬ。
孔子は政治家としては失敗者であり、万年野党的見解の持主であった。にもかかわらず彼が聖人の待遇を受けて、われわれの文明史上、最も輝かしいイスにすわったのはなぜかである。
これは東洋の文明に関心をもつ人々なら例外なく突き当たる壁である。万里の長城さえ死物と化した今日、なお、この壁だけが目に見えないがゆえに無傷でありうると考えるほうが、不思議ではないだろうか。
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