子路は見栄坊とはおよそ逆の性質だから、「ボロ服のまま狐の皮衣を着て貴人たちの前に立っても恥ずかしがらない男だ」と孔子に賞められたことを徳とし、「不不求」という『詩経』の文句をバカのひとつ覚えのように拳々服膺した。不不求とは持てる者を悪く言わず、持たざることを恥としないことである。これを聞いた孔子は、
「それで満足するやつかあるか」
と、きめつけている。
その後、子路は衛に仕官するようになったが、彼の師匠思いは一貫して変わらなかった。
孔子が病気になって病の床に臥したとき、自分の弟子を孔子のもとへ派遣して臣下の礼をとって仕えさせた。孔子は感謝の意を率直に述べる代わりに、
「子路のやつはうそつきだ。自分はいま、大夫ではないから家来のいるはずがない。それを家来があるかのように見せかけて誰をだませというのだろうか。わしは家来の世話になって死ぬよりは、弟子に見守られて死にたい。たとえ盛大な葬式をしてもらえないとしても、まさか道端で野たれ死にするようなことはあるまいよ」
これが子路に対する孔子の感謝のことばである。
子路の死は孔子の予言したとおりであった。国を追われていた蒯聵が自分の姉の情夫を抱き込んでクーデターを敢行したときである。そのとき、子路は衛の重臣で蒯聵の甥にあたる孔の直属の家来であった。蒯聵は女装して衛都にもぐり込み、孔に剣をつきつけて、君主交替の宣言をさせようとしたのである。
子路は急を聞きつけて、急いで城下へ馳せ参じた。おりよく城門があいたので、彼がすぐ中へとび込んだ。
「大夫を殺すと承知しないぞ」
そのとき、孔はすでに脅迫されて城楼に上がっていた。
「城楼を焼き払え」
彼がそう叫んだとき、ふいに刀が飛んできて、子路の頭は冠を付けたまま地上に転がり落ちた。
「君子は死すとも冠を脱がず」
と叫んで息が絶えたそうであるが、「死んでもラッパ」の孔子的精神を身をもって実践したのは数多い弟子のなかで、彼一人だったのではあるまいか。孔子はその翌年になってから死んでいるが、子路の死を聞いて孔子の受けた打撃は、秀才肌の顔回の死に接したときの比ではないだろう。
子路とは性格的におよそ正反対で、しかも子路に負けず、孔子に愛されたのは子貢であろう。子貢は器用な男であった。弁舌の才もあり、なにをやらせても失敗することがない。
いつも人のことを批評するのが好きで、孔子から、「子貢は利口なやつだ。わしにはそんな暇はない」と皮肉られた。
あるとき、孔子は子貢に、
「じゃ、おまえと顔回ではどちらが賢いと思うか」と聞いたことかある。
「そりゃとても顔回には及びません。顔回は一を聞いて十を知る男です。私は一を聞いてもせいぜい二を知る程度ですから」
子貢が案外自分を知っているので、孔子は、
「それを知っておればよろしい」と答えるよりほかなかった。
またあるとき、子貢が告朔のときに供える羊なんぞ廃めてしまったほうがいいと主張したことがある。告朔の礼というのは、むかし天子が毎年冬季に、あくる年の暦を諸侯に分配し、諸侯はそれを自分らの祖廟に納めて、毎月の朔日(ついたち)に一匹の羊を供え、その月の暦をもらい受けて自分らの領内に配る行事である。この行事はすでに行なわれなくなってから久しかったが、羊を供えることだけは相変わらず続いていた。子貢は実際家だったから、この羊を供える必要がないと言ったのである。
「子貢よ。おまえは羊を惜しがるが、わしはその礼を惜しむよ」
と孔子は反対した。
私の見るところでは子貢は自分の才を誇るところはあったが、人間的欠陥の最も少ない常識家であったようである。孔子自身も実際家であったが、子貢に対する場合はむしろ子路的な野人として接した。鄭の城門外で迷い児になったとき、他人が孔子を野良犬のようだと評したら、「そのとおり、そのとおり」と孔子が冗談をとばしたのも、相手が子貢だったからであろう。
子貢は他人を批評するのが好きだったばかりでなく、自分が孔子の目にどう映っているかに興味をもっていた。
「私はどんな人間でしょうか」
面と向かって孔子にそう聞いたのは彼だけである。
「おまえは器だ」と孔子が答えると、
「器にもいろいろありますが、どんな器でしょうか?」
「瑚璉だな」と孔子は即座に言った。
瑚璉というのは、宗教の祭りのときに黍稷を盛る美しい器である。そのころの祭事には欠くべからざるもの、衆目の監視に耐えうるもの、逆に解釈すれば、美しいけれど、結局は食えないやつだと考えられないこともない。孔子は好んで象徴的な表現を用いたか、子貢はおそらくそうした表現がぴったりするような性格と行動の男であったにちがいない。
孔子は彼の才能をじゅうぶんに認めながらも、
「自分でも不愉快だと感ずるようなことを、他人に向かってやりたくない」
と子貢が言うと即座に、
「おまえには望むべくもないことだ」
とやり返している。思うに子貢は常識家のつねとして、非常識な男を低能扱いにする傾向があったのであろう。『論語』に現われているかぎりでは、子貢と子路の仲が悪かったような形跡はないが、性格的に二人が相容れなかったのではないかと私は想像している。
だいたい、孔子は弟子の性格に応じてその最も短所となっている点をついて、個別的な教育を施した。子路に蛮勇を慎むことを教えたように、子貢には恕、つまり寛容の精神を教えているところをみると、子貢のさしあたりの敵は、年齢的に相当の懸隔があるが、まずは子路ということになる。
しかし、そんな子貢にとって、孔子があたかも太陽や月のように偉大に見えたのはどうしてであろうか。孔子が彼と同じような実際家でありながら、しかも野人の風格をそなえた人物だったからではあるまいか。その性格的な幅の広さは、さすがの子貢もまねができなかったにちがいない。
だから、子貢は孔子を太陽や月にたとえた。孔子が過失をおかすのを、日食や月食に擬した。日食が始まると、みながこれを見る。しかし、日食が過ぎてしまうと、太陽はふたたび光を取り戻し、人々は改めてこれを仰ぐのである。
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