しかし、孔子が共産主義者と多少なりと似通った考え方をもつと思われる節は、「少なきを憂えず、均しからざるを憂う」という一言だけであろう。貧乏だとか分け前が少ないとかいうことは比較の対象があっての話だから、財産権や機会が均等であれば、貧乏がなくなるのは論理的必然である。また、生活が安定しておれば、人間の思想は極端に流れることもまずないであろう。孔子もこの理論の正しさはじゅうぶん認めていたが、そうすることが正しいとか、またそうすることが可能であるとは考えていなかった。それは孔子が金持の味方だったからではなくて、人間の貧富は人間自身の意志と努力によって左右できるものでないと考えていたからである。
「もし金持になろうと努めて金持になれるものならば、大名行列の露払いのような卑しい仕事でもいとわない。だが、求めても金持になれないものなら、自分の好きなようにふるまいたい」
と孔子は言っている。しからば人間の貧富を左右するものはなにか。努力がある程度人間の生活を楽にすることや怠惰が人間を貧乏にすることはあり得るけれども、人間的にはきわめて愚劣な人間が突如として大富豪になったり、立派な人間が不当に逆境に追い込まれたりするのは、われわれの判断力を超えたある法則によって支配されていると思うよりほかない。この不可知の力を彼は「天」ということばで表現しているが、これはわれわれがふつう「運命」と呼んでいるものと同じものと考えてさしつかえないであろう。運命論者は世界じゅうどこにもいるけれども、この「天」の思想はわれわれの運命を天の上、もしくは地の下と結びつけずに、そのままそっとしておくところに特徴がある。
ところが、孔子が全面的に「運命」の前に叩頭しているかというと、必ずしもそうではない。
金に関するかぎりは、悪人の天下である。ボンクラがうまく鉱脈にぶつかることもありうるが、その半面、金に苦しめられる人がどれだけいるかわからない。だから「国の政治がうまくいっているときに貧乏なのは恥であるが、国の政治が乱れている場合は金持のほうが恥だ」と言って、同時代の金持を攻撃している。そういった意味で現代に生まれていても、孔子はおそらく金持を敵としただろう。それでいて、共産主義者の味方にもなっていなかったにちがいないのである。
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