現 世 派
「文壇には出たけれど」という特集を先ごろ、ある雑誌がやった。出るには出たけれど、あとが必ずしも順調にいくとはかぎらない。一生を振り返ってみれば、どんなつまらない人間にだって黄金時代というものがある。その黄金時代が過ぎ去ってしまうと、かえってそれが障害になって、生きることの悲しみを満喫させられる。
孔子の黄金時代は五十一歳から五十五歳までで、その間に彼は司空(内務大臣)、司寇(司法大臣)と歴任したのだから、物書きでいえば一枚五千円の稿料をもらったようなものである。高い稿料はもちろん、もらって気持の悪いものではないが、いったん落ち目になると、かえって仇になる。いまさら安くてもよいから買ってくれと頼み込むことは自尊心が許さないし、孔子自身安売りをするよりは失業を選んだので、失意の連続だった。
私は孔子を小説家にたとえてこの稿を書き出したが、これは単なる方便のための比喩ではない。文学とか、経済とか、社会とかいった分類の仕方はごく近代の現象であって、孔子の時代には全部ひっくるめて一口に学問と称した。学問は孔子にとって至上のものであったが、それはあくまでも人生のためのものであり、したがって政治と無関係ではありえなかった。今日、文学作品として残っている中国文化の遺産のなかで、政治と切り離して考えられうるものはほとんどないといってよい。白楽天や陶淵明にとって文学はむしろ余技であったかもしれないが、李白や杜甫が政治家の落第坊主であったことを思えば、むしろ当然の現象であろう。
逆境は人間を作るという。しかし、逆境によって滅ぼされる人間がどれだけいるかしれない。そんななかにあって、ともかく、孔子が滅びなかったのは、彼がきわめてあきらめの悪い男だったからである。かつてある偉い役人が、孔子の弟子の子貢をつかまえて、
「孔子はずいぶんいろんなことができるが、聖人なんだろうか」
と聞いたことがあった。だいたい、子貢はホラ吹きな男だから、
「そりゃそうですとも。生まれながらに聖人の素質があるんですよ」
と答えた。そして、自分が師匠のために宣伝してきたことを、得意になって孔子にしゃべった。
「その役人はわしのことを知らんのだろう」と孔子は言った。「わしがつまらんことをいっぱい知っているのは、若いときに貧乏をしたからだ。たいして自慢になることじゃないよ」
似たような記述が『論語』の同じ子罕篇にものっている。それは達巷という所の人が孔子のことを博学多識で、なんでもできると賞めたときである。
「なんでもできるというのはなにもできんというのと同じことさ。いったい、わしになにができるだろうか。馬車を御することか、それとも弓を射ることか。そうだ、わしは馬車を御することならできるかもしれんな」
そう言って孔子は笑いとばした。
1   

←前章へ

   

次章へ→
目次へ
ホーム
最新記事へ