昭和三十六年二月一日、栗田さんが野崎さんをはじめ、小坂田弘三さんとか、若山正治さんとか、戸嶋勉さんとかいった「栗田スクラップ艦隊」の面々を引き連れて、我が家へ現われたのは、東京上場のために証券取引所の説明会に来たその晩であった。私は、同じ時期に、株式市場で頭角を現わした、ミツミ電機の森部一社長もご招待して、一緒に楽しい一夕をすごした。
このとき、栗田工業の株は倍額増資をして、一株六百円からはじまったので、逆算すると、一株千百五十円になっていた。私は食卓を囲んで皆で大騒ぎをしているときに、野崎常務をつかまえて、
「野崎さん、あなたが粟田の株を売れというから売りましたが、この株価はどうです?あなたのおかげでえらい損をしましたよ」
といったら、野崎さんは少しもあわてずに、
「邱センセイもたいしたことありませんな。私にいわれたくらいで、株を売るんですから」
と逆襲してきた。いま思いかえしてみると、あの頃が、成長経済の最盛期であり、栗田春生さんの黄金時代でもあった。
栗田さんは水処理産業のパイオニアではあったが、経営については残念ながら「欠陥人問」であった。まず銀行が大嫌いで、銀行にロクに顔も出さなかった。そのために長期資金が調達できず、短期資金で長期投資をやるという無謀な資金ぐりであった。また地方公共団体の糞尿処理工事をもらうために、公務員の買収をしたり、資金ぐりの悪化を隠蔽するために粉飾決算をやったりした。それが露見して、社長の椅子を追われ、裁判沙汰にまでなったが、調べにきた検事たちが社長宅にカラーテレビもないのを知って、この人はお金を隠したりする人じゃないな、と確信をもったそうである。
裁判が一件落着したのち、粟田さんは、タイヘ行って、タイ・クリタという会社をはじめ、一頃は二百名くらい社員をもつまでに恢復した。
「バンコックでも、クリタ式海軍訓練法で、チュラルンコーン大学出など集めて毎朝、駆足やらせていますよ。どうせ根性のないやつが脱落するだろうと思って、少し多目に入社させたところが、タイもご多分にもれず不景気でねえ、なかなか辞めてくれないので往生していますよ」
私は誘われて、バンコックにある栗田さんの事務所や工場まで見学に行ったが、その後しばらくして、栗田さんの人生はまた暗転してしまった。ベトナムにおけるアメリカの危機がタイからの米国銀行の資金を引き揚げさせ、栗田さんは同じ金融面でまたしてもつまずいてしまったのである。債権者と話合いがついて牢を出た粟田さんは、紫蘇を栽培して暮らすのだといっていたが、雇っていた手伝いの少年に刺されて、あえない最期を遂げたことは新聞が報じている通りである。とはいえ、今日の日本の水処理業界で働いている人たちの中に栗田工業出身は圧倒的に多いし、草分けとしての栗田さんの功績は燦然として輝きつづけている。
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