十九、栗田春生の痛快な人生
昭和三十四、五年頃から、私は株式投資に関心をもちはじめ、それまで小説や評論を書いていたのを方向転換させて、突如、株式評論に筆を染めるようになった。高度成長がはじまり、日本人が、これまでになく経済に注目するようになる以上、文士の中で一人くらいお金のことがわかる人がいてもいいのではないか、と思ったのである。
私の株式投資は、私自身がまったくのシロウトであったせいもあって、その筋のクロウトから見たら、ハッと驚くようなものであった。当時の株屋さん(まだ証券会社というコトバがそれほど一般に馴染まない時代であった)は、お客に株をすすめるのに、日立、東芝、八幡、富士鉄のような超一流の資産株をすすめることが多かった。私はこういう考え方に反発して、「未来の横綱を買うのが株式投資で、番付通りにひいきにするのは間違いだ」と主張し、当時、まだ第二部市場もできていなかったが、青空市場といわれた店頭株の中から、これはと思う出世株を選び出して週刊誌で推奨をした。千代田化工、佐藤工業、日本ハム(当時は徳島ハムといった)樫山、ミツミ電機、ナショナル金銭登録機、パイオニア、リコー(これは既に上場していたが、額面すれすれの株価だった)などは、のちに誰でも知っている一流企業になったが、当時はまったくの無名株だった。私がこれらの株を推奨すると、最初は首をかしげる人が多かったが、なるほどこれはリクツだと納得して株を買う人もあるようになったので、私の推奨株は毎週のようにストップ高を演じ、私はたちまち「株の神様」(?)ということになり、証券会社に誘われて全国を講演してまわるようになった。
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