十八、市村清と今東光のコンビ

リコーの創業者社長市村清さんと知り合いになったのは、私が株について書く少し前だから、昭和三十三年頃のことではなかったかと思う。市村さんの奥さんの実弟に菅野勝麿さんという人がいて、どういうわけだか私のファンで、私の書いたものは小説からエッセイ、巻頭論文に至るまで全部読んでいた。この人が「三愛」という社内報を担当していたので、雑誌の対談に出席してほしいということで、私を自分の義兄に引きあわせたのが、私と市村さんとの初対面だった。
当時のリコーは、まだ理研光学という社名の、あまりパッとしないカメラ・メーカーで、大田区の馬込に木造の社屋があった。株式は既に上場していたが、株価は額面すれすれの五十一、二円であり、市村さん自身も、ジャーナリズムからスポットをあてつづけられた後年と違って、まだ無名の経営者であった。リコーの社長室は銀座の伊東屋の隣にあって、同じく市村さんの経営している三愛石油と同居していた。ビルのショー・ウィンドーに、LPGの宣伝文句が書いてあって、LPGとは何だろうと首をかしげながら覗き込んだ記憶がある。
市村さんは、「日本商品は安かろう悪かろうで、しかもそれを外国へ売りに行く日本人同士の間で、お互いに相手を出し抜いて安売り競争を展開している、こんな情けないことはない」と、シリアでトヨタとニッサンが値引き合戦をやっていることを例にあげて、しきりに嘆いていた。私は、この常識的な見解(当時の実業人は、だいたい、そういう具合な受けとり方をしていた)に異議を唱え、「一流品がいいことはわかっているが、世界には一流品の買えない国民もたくさんいるから、安かろう悪かろうの商品でも、ちゃんとしたマーケットをもっています。トヨタとニッサンでお互いに相手の裏をかくような値引き競争をしているというが、それでもまだ儲かっているから値引きをするのでしょう。競争しながら、品質をよくしていけば、心配なことはありませんよ」といったら、市村さんは目をパチクリしていた。このあと、リコピーの成功でスターダムにおどり出た市材さんは、よく経営雑誌などに登場するようになり、また単行本なども出版されるようになったが、『儲かる経営・儲ける経営』という市村さんの本を見ると、私のことが出てきて、邱永漢さんは短い原稿を頼まれると、雑誌社に「いつもショート・タイムばかりでなくて、たまにはオール・ナイトにして下さいよ」と冗談をいう。短い原稿では原稿料も少ないからいやだ、という代わりに、こういういい方をすれば、相手に不愉快な感じをあたえない、うまいいい方をする人だ、といった意味のことが書いてあった。私自身、いつそんなことを喋ったか覚えていないが、よほど市村さんの印象に残ったのであろう。

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