市村さんは、私より二回りも上の同じネズミ年で、育った時代も環境もまるで違うが、どういうわけか、私とたいへん気が合い、どんなに忙しいときでも私が会いに行くと、必ず時間をあけてくれたし、私に会うと、何でも私に相談をもちかけた。何しろスーパー・ワンマンだから、重役たちは社長の言うことに意見をさしはさむことができず、「邱センセイ、うちの社長にいって下さいよ」と逆に私の方が頼まれることも再三ならずあった。
しかし、親しくなった分だけ、市村さんの欠点も目についたので、私は手放しで市村さんを礼賛する気にならず、「うちの会社で近くリコピーを売り出しますから、株価があがりますよ」「こんど中央研究所ができて、落成式に池田総理も見えますよ」といわれたときも、「あ、そうですか」と生返事をしただけで、格別、心を動かされなかったし、株を買おうという気も起こさなかった。うちの女房にいわせると、「あなたは親しい人を過小評価する傾向がある」そうであるが、確かに市村さんが生きている間は、「市村さんはせっかちで、目先のきく人だから、流通業には向いているが、じっくり腰を落ち着けてやる工業には向いていない」とご本人に面と向かっていったこともあるし、そのことを理研光学のPR用の単行本をつくる座談会の席上でも喋った。もちろん、お金をもらってつくるPR本に、私の発言は載らなかったが、私は「市村さんは、上から一円入れたら、下から二円出てくる自動販売機をつくるのに適したセッカチな人です」といったのである。しかし、市村さんが亡くなったあとで考えてみると、「市村さんは稀に見る個性豊かなアイデアマンで、そのセッカチな性格のゆえに、失敗もしたが、時代の要求に即した商品を誕生させることができた、たいへん魅力的な人」であった。今日のリコーの社運の隆盛は、創業者の精神に負うところが大だと私は思っている。

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