その市村さんが私の平町の家に見えたのは昭和三十五年九月十三日で、同席したのは、今東光、五島昇、山口淑子、丸三証券社長長尾貫一、それに菅野勝麿、赤坂の料亭龍村の女将さんであった。 今東光さんは、文壇歴は私と比較にならないほど古いが、ご承知のように菊池寛と大喧嘩をしてほされ、河内の片田舎で住職をやっていた。売れない小説を書いて、雑誌社に持ち込むと、「またあの坊主が」と記者たちがぼやいていたのを書いたことがあるが、「お吟さま」が吉川英治氏の推輓で直木賞受賞作品になると、眠れる獅子が突如目を醒まして吼えはじめたように、獅子奮迅の大活躍をはじめた。坊さんだから、世俗の欲望はいっさい断ち切っているのかと思ったら、さにあらず。五欲皆健全という生臭坊主で、物欲だけはきすがに財布の紐を奥さんにガッチリ握られていて思うままにならないが、色欲、名誉欲、食欲いずれも人並みはずれていて、坊さんだけに、足りないお金を喜捨に仰ぐのもいたって平気であった。今さんを市村さんにはじめて紹介したのは私だったように思うが、金持ちにお布施をもらうのは、仏教の教えに反することではないから、市村さんは結構がめられたときいている。 しかし、今東光和尚には、八方破れのところがあり、それがまた魅力になって、世間を沸かせる原動力となった。ちょうど日米安保条約の改正をめぐって反対運動が起こり、六月だったと思うが、アメリカ大統領新聞係秘書ハガチーの来日をデモ隊が羽田で包囲するという騒動が起こった。その夜、偶然にも私と今さんが富山で講演をする予定になっており、日米関係の先行きを心配した聴衆が詰めかけて、新しく落成したばかりの公会堂が超満員になった。今さんは、何千人という聴衆を前にして何の話をするのかと思ったら、いきなり、「邱永漢の首には蒋介石の懸賞金がかかっている。君たちのなかに、首に懸賞金のかかったやつが一人でもおるか」といった話からはじめた。 それから十何年たって私が国民政府に迎えられて台湾へ帰ると、今さんは人にことづけて台湾にいる私のところへ、「君が台湾に行ったと知って、首がつながっている奇蹟に驚いています。そのうち僕も君の首の工合を見に行きたいと思っています」とわざわざ手紙を届けてくれた。そういう痛快さと人情のある悪僧であった。また山口淑子さんはのちに参議院議員になったが、当時は年下の若い外交官と結婚したばかりで、私とはラジオの対談で知り合いになって間もなくのことであった。市村さんと同郷だったので、錦上花を添える意味でおいでいただいたと記憶している。
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