株価が私のいうことをきいたのは、日本経済が成長期にあり、パイ全体が大きくなる時期だったからであった。私は成長株理論にのって、「次の成長株は何か」ということに興味を集中し、ついには病がこうじてまだ店頭株市場にも顔を出していないような新興企業にまで首を突っ込むようになった。そのなかには、立石電機とか日清食品とかダイエーとかいったものがあるが、栗田工業もそのなかに数えられる。
私は工業が発展したら、川が汚れるから水処理は大きな産業になるだろうと予測していた。
水処理の企業としては、既に「オルガノ」が店頭株に出ており、第二部市場の成立とともに二部銘柄として、クロウト筋の注目を浴びていた。ほかに荏原インフィルコと栗田工業が業界をほぼ三分していることを私はきいていたが、あるとき、株式新聞を見ると、店頭株欄に、栗田工業が四百六十円という値段で出ていた。私は早速、その株を買い求め、大阪へ講演に行ったついでに、栗田工業に電話をして、工場を見せてもらえないかときいてみた。どうぞおいで下さいといわれて、梅田駅の裏のスケートリンクの近くにある本社に出かけていくと、常務をやっていた野崎貞雄さんが出てきて、
「工場といっても、水処理ですから、それぞれの依頼者の水をもらってきて分析をする実験室しかないんですよ」
なるほど三階建の建物の中には、これといった機械設備など見当らなかった。私は、私が栗田工業の株を持っていることを告げると、野崎常務はいくらで買ったかときく。四百六十円だというと、野崎さんは私に両手をあわせ、
「センセイ。うちの株は一株につき二百円の値打ちしかありません。センセイのような人に四百六十円の株を持たれると、その精神的負担に耐えられませんから、どうか売ってしまって下さい」
もちろん、冗談半分の話にきまっているが、東京へ帰ると、一週間のうちに五百六十円にはねあがっていたので、私は百円とって全部売りとばしてしまった。
私が「栗田工業」の創業者である栗田春生さんと会ったのはその直後である。戦後の灰の中から事業をおこして大をなした人々に私は数多く会ってきたが、栗田さんのような、痛快な、私利私欲のない人にはかつて会ったことがない。初対面のときに、「栗田工業はどのくらいの大きさになると思っていますか?」と私がきいたら、即座に「いつ八幡を追い越そうかと思っているところですよ」という答えがかえってきた。
栗田さんは海軍機関大尉で終戦を迎え、大阪で高利貸から十万円借りて、ボイラーの清浄剤を売る商売をはじめたが、時流に乗ってたちまち大きくふくれあがった。資金ぐりに追われていたので、上場して資本の調達をする必要に迫られていた。私は栗田さんの意図がわかったので、知人の証券会社の社長を紹介し、「もし二部市場で上場するなら、大阪だけでやってはいけない。東京、大阪両市場で同時にやりなさい」とアドバイスをした。もし大阪だけで上場したら、「東のオルガノ、西のクリタといわれる」ようになるから、栗田さんのような大風呂敷の意にそぐわないだろうといったのである。栗田さんは私の意見をとり入れ、一年足らずのうちに条件をととのえて、両市場で同時に上場することになった。

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