たとえば、日本の自動車メー力ーがアメリカに工場をつくれば、
GMやフォードやクライスラーは市場を日本勢に奪回されて不利な立場に追いやられる。だから外国資本の参入を制限すべきだという議論も盛んである。しかし、外国資本の進出を断われば、国内自動車メー力ーのシェアが落ちないかというと、現に輸入の増大によって脅威にさらされている。もしここで外国勢の参入を拒否し、輸入も制限すれば、アメリカの国内企業が勢いを盛り返すかというと、おそらく国際競争から取り残されてソ連や東欧共産主義国並みに国全体の経済が沈滞してしまうことだろう。昔々、鉄道を通した時代に、鉄道が通ると、乗合馬車や人力車の商売がなくなってしまうからといって、駅をつくることを拒否した町があった。やむを得ず鉄道は大きな町を避けて小さな村に駅をつくった。そうしたら、列車の発着する村に次々と人が集まるようになり、小さな村がみるみる大都市に成長した。反対に列車の発着しない町は次第にさびれていった。外国資本を受け入れるかどうかは、町に鉄道をひくかどうか、あるいは新しい飛行場をつくるかどうか、とよく似ている。既存の勢力関係や産業社会に固執して、変化をおそれるあまり、新しい「富を創造する」チャンスを受け入れなければ、それを受け入れた地域に出し抜かれてしまうことは目にみえている。
既存の同業者はいつだって新しい競争相手の出現には反対する。しかし、新しいライバルが足場をつくれるのは既存の業者をしのぐ経営力とすぐれた技術力を持っているからである。こうした「適者生存の法則」は、人類の歴史を長く支配してきたが、経済社会もその例外ではない。ただ経済の舞台が地域的なスケールから全地球に拡がったので、アダム・スミスの時代なら、フランスとイギリスのあいだで争われていたようなことが、世界中で争われるようになった。スミスの時代も、一つの国で形勢不利とみた商人は商売をたたんで、よその国に移る動きがあったが、かなり緩和されたとはいえ、今でも他所者を排撃する民族感情とか、国民感情はまだ根強く残っている。そのために、本来なら淘汰される運命にある企業にも手厚い保護が加えられるようになり、反対に勝ち残る企業でも、ただ外国人によって経営されているというそれだけの理由で、目の敵にされる可能性が残っている。おそらくアメリカで今後、ますますこうした狭量な国民感情が露骨に現われるものと思われるが、追われる身になった国ではどこでもそういうことになりがちなものである。現に日本でも劣勢に立たされている農業の分野で同じことが起っているから、アメリカ人のことを笑ってばかりもおられないのである。
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