第390回
どうすれば≪希望≫は叶うのか?・3
希望とはどうすれば叶うのか?
いま流行の≪希望学≫のように、
ただ社会構造の分析をしても、
希望達成の答えにはならないのではないか?
帯津良一医師はどう考えているか?
いま発売中の月刊「むすび」誌12月号の
連載コラムの話の続きです。
*
「無理に明るく前向きを装っても希望は生まれない。
ただ、明るく前向きでは病気の克服も
人生の転換もそうそう掴めるものではない。
そうではなく、人間は哀しくて寂しいものだと思えば
希望もむくむくと湧いてきて病気も治る。
不運、災難、病気を克服するパワーの源は
どこにあるのか?といえば、
それは、自分のいのちの居場所を掴むこと、
つまり、ただ病を予防する≪守りの養生≫から、
生命の根源=150億年の果ての
≪虚空≫と一体となるために、
自らの生命場を向上させて突き進む。
その≪攻めの養生≫を心がけることから
≪希望・ときめき≫の循環が生まれるのだ」と。
≪絶望に落ち入っても、これ以上、
哀しい状態はない≫と謙虚に思い直し、
自らの≪いのちの帰る場所≫をじっくりと見定めれば、
死の恐怖を乗り越えるばかりか、
日々、希望に満ちた躍動するパワーを掴むことができる――
帯津医師はこういっているわけです。
西洋モノマネの二元論思考から
東洋伝来の一元論思考への見直しです。
この考え方には僕もエンパシー(共鳴)しています。
しかし、僕は帯津先生のように
仁徳の厚い人間ではありません。
また、幼い頃、クリスチャンの家庭で育ったせいか、
いつかは「神の大きな懐(ふところ)に帰る」
「懐かしいいのちの故郷(ふるさと)に帰る」
と思っているところがありますから、
日々、なるべくしなやかに物事の調和を楽しみ、
≪一日一生≫の気分で過ごしたいと
思っているわけです。
このあたりが僕のささやかな≪希望力≫の源泉です。(略)
ともあれ、いま流行りの≪過剰分析≫で、
人生の結論を急いではなりません。
とくに孤独な環境の中で自らを過剰分析し、
将来を単純に決めつけてしまうことほど、
失望感、挫折感、閉塞感をもたらすものはありません。
*
(以下明日に続きます。)
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