ガンを切らずに10年延命-関根 進

再開!元週刊ポスト編集長の目からウロコの体験秘話!

第84回
トルストイもガンジーも賀川豊彦も「ベジタリアン」!

非戦・自由・平等を貫き、菜食主義を理想とした人に、
ロシアの文豪トルストイや詩人の宮沢賢治や
インドの無抵抗主義者のマハトマ・ガンジー、
さらに牧師・社会運動家の賀川豊彦がいた――
聖人や高僧のように、厳しく玄米菜食修行をしないまでも、
「健康」、さらに「動物愛護」や「環境」のためのみならず、
「平和・平安」のためにも、穀物菜食を見直して、
これからは、週1の「ベジタリアン」を奨めたい――
という話の続きです。

賀川豊彦といえば、その100万部ベストセラー小説
「死線を越えて」の中にも
酒も肉もやらず、菜食や果物を好んで食べるシーンが登場します。
まえに、僕が神戸文学館の賀川豊彦・企画展に
行ったときの話しを書きましたが、
会場には「時代を超えた思想家・賀川豊彦」(林啓介・著)
という本も展示されていまして、
賀川の菜食主義の様子が書かれていました。

<賀川の菜食主義の実践は
トルストイ主義から来たばかりではなかった。
彼は17歳の頃、山崎今朝彌(やまざきけさや)が
アメリカの水治療法の泰斗ケロッグ博士著
「粗食論」を訳したのを読み、美食の有害であること、
肉食は菜食者に比して短命であること、
傷をしても化膿し易いこと、美食よりも粗食の方が
栄養に富んでいることなどを挙げていたが、
賀川はこれに共鳴するところがあったのである。(略)>

ちなみに、この本に登場する「粗食論」とは
「粗食養生論」(隆文館・刊 明治40年)のことで、
訳者・山崎今朝彌は明治36年(1903年)アメリカに遊学中に
幸徳秋水ら社会主義者と盟友となり、
大正期に東京で起きた社会主義者の事件の
ほとんどを担当したやり手の弁護士です。

話は余談とはなりますが、
いまから100年前の明治44年(1911年)
天皇暗殺未遂・大逆事件の“でっちあげ”で
幸徳秋水らが絞首刑に処されたわけですが、
それ以降、当局は特別高等警察=特高を設置して、
堺枯川や石川三四郎といった幸徳秋水の盟友や、
拙著「大正霊戦記」の主人公・牧師作家の沖野岩三郎ら、
社会主義・自由主義に関係した、いわゆる「大逆事件残徒」は、
ことごとく、不穏分子・危険思想の持ち主として、
「要視察人」のリストに挙げられ、
常に尾行監視の下に置かれました。

第1次世界大戦後、表面上は「大正デモクラシー」と呼ばれ、
ささやかな自由な時期を迎えたと、
よく歴史書に書かれていますが、
むしろ、「アメとムチ」ではありませんが、
新聞紙法や治安維持法による検閲発禁・言論封殺は
ますます厳しく、大正10年(1921年)の
特別高等係編『特別要視察人名簿』を見ても、
【山崎今朝彌=特別要視察人 乙種 共産主義漸進派】――
ちなみに大逆事件・残徒作家の沖野岩三郎や
処刑された大石誠之助の甥(西村伊作の弟)の
大石七分(おおいししちぶ)などは、
【沖野岩三郎=特別要視察人 甲種 社會主義派】――
【大石七分=特別要視察人 甲種 無政府主義漸進派】――。
より危険度の高い【特別要視察人 甲種】に
リストアップされる時代でした。

話を「ベジタリアン」に戻します。
賀川豊彦や山崎今朝彌の記録を確かめるまでもなく、
明治・大正期の社会主義者にも、
菜食主義嗜好の人が多かったようです。
大逆事件の首謀者といわれた幸徳秋水にしても、
一般には“過激テロ”や“爆弾暴動”の親玉?のように
思い込まれているところがありますが、
これも歴史書の偏見で、じつは、胃腸が弱いせいもあって、
菜食主義に関心の高い人だったのですね。


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2009年2月8日(日)

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