ガンを切らずに10年延命-関根 進

再開!元週刊ポスト編集長の目からウロコの体験秘話!

第80回
大正自由人たちの知られざるエピソード

神戸文学館(※1)の企画展「賀川豊彦の文学」で
詩集「涙の二等分」を読んで感動した話の続きです。

この詩集の序文は歌人・与謝野晶子が書いています。
「私は最後に、この詩集が、
あらゆる家庭に、教場に、事務室に、工場に、
乃至(ないし)街頭に於ても読まれることを祈ります。
太陽が何人をも暖めるやうに、
賀川さんの詩は愛と平和の中に何人をも率直に還します。(略)
賀川さんのみづみづしい生一本な命は
最も旺盛にこの詩集に溢れています。
若し我國にも人生派または人道主義の詩があるかと言ふなら、
私は第1にこの『涙の二等分』を挙げようと思ひます。
1919年11月 與謝野晶子」

ところで、若干30歳の新進牧師・賀川豊彦と、
飛ぶ鳥を落とす勢いの歌人・与謝野晶子との橋渡しをしたのは、
じつは先輩格に当たる牧師作家の沖野岩三郎でした。
賀川自身、『死線を越えて』の第2編
『太陽を射るもの』で書いています。
米国留学を終えて、大正6年(1917年)5月、
「東京に出て来ていた音無信次(沖野岩三郎)の紹介で
女詩人 星野Y子(与謝野晶子)女史を訪れた。」
(『賀川豊彦全集』第14巻)と。

また賀川豊彦が時代の寵児として注目されたのは
社会の底辺に暮らす人々の救済だけでなく、
不当な搾取に苦しめられていた労働者や小作農民のために
組合を作り、また、生活協同組合を指導――、
民衆の真っ只中に分け入って民主社会建設の実現を目指す、
気鋭の社会派牧師だったからでした。

とくに賀川が労働組合に続いて小作人組合を作るとき、
福島で農民伝道をしていた牧師・杉山元治郎と
結んだのは、またしても沖野岩三郎です。
杉山は太平洋戦争後、衆議院副議長にまでなった人ですが、
若き日に和歌山の教会で、
沖野と共に日露戦争の非戦運動を共にした、
もうひとりの親しい後輩でした。

沖野は、大正8年(1919年)、総合雑誌『雄辨』に、
「日本基督教会の新人と其事業」という論文を発表し、
大半のキリスト教会が
社会問題と無関係になっていることを批判し、
これから期待すべき行動派の新進牧師として、
賀川豊彦と杉山元冶郎の二人の後輩の活動を紹介しました。
この話は「農民組合五十年史」(御茶ノ水書房)にも明記されています。

それが縁となって、ついに日本初の小作人組合が誕生するのですが、
大正10年(1921.12.16)の大阪時事新報には
「―賀川豊彦氏と沖野岩三郎氏が日本農業労働総同盟を作る―」
と題する記事が残っています。

「我国人口の約六割を占むる小作農民間に燃え広がった
小作人運動は暮近くなって益々白熱化し(略)
工業労働運動にのみ専心していた賀川豊彦氏は(略)
いよいよ全国四百有余の小作人組合全部を糾合して
工業労働組合に対し日本農業労働総同盟を
作ることに努力し始めた。
東京では沖野岩三郎氏 大阪では杉本元治郎氏、
神戸では賀川氏が中心となって活動し
賀川氏はその会長になると謂う(以下略)」

明治末期、幸徳秋水ら
天皇暗殺未遂・大逆事件の処刑・弾圧から10年――、
社会主義や自由主義の活動家も世代替わりを迎えていました。
過激派としては大杉栄、荒畑寒村らが新世代として脚光を浴び、
一方で、賀川や杉山らのキリスト教社会主義者が組合活動をする
新たな時代を迎えていたわけです。

大逆事件の残徒作家・沖野岩三郎といえば、はや40歳を超え、
「非戦、自由、平等」の現場活動では、
第一線前衛というよりも後衛も兼ねた、
自由主義者人脈のコーディネーター、
いわば「大正デモクラシーの産婆役」として、
しぶとく「筆戦と舌戦」を展開していたわけです。

長々と、拙著「大正霊戦記―大逆事件異聞 沖野岩三郎伝」
続編の話に脱線してしまいましたが、
次回から「ガンの話」に戻ります。


※1 http://www.kobe-np.co.jp/info/bungakukan/index.html


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2009年2月4日(水)

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