第78回
神戸文学館の「賀川豊彦」企画展に立ち寄る
さて、大阪で、正食協会の岡田会長ご夫妻に会ってから、
僕たち夫婦は、翌日、神戸に参りました。
ちょうど、神戸文学館(※1)で「賀川豊彦の文学」という企画展が
開かれていたので、そこにも立ち寄りました。
賀川豊彦というと、年配の方はご存知の人もいると思いますが、
大正・昭和と活躍した牧師・社会運動家で、
神戸の葺合新川の貧民窟でキリスト教の伝道に専念。
身を挺して貧しい人々に食事や医療を無料で提供して
救貧活動に力を注ぎ、「日本のガンジー」と呼ばれ、
のちにノーベル平和賞の候補にも挙げられた人です。
なぜ、立ち寄ったかといいますと、
拙著「大正霊戦記―大逆事件異聞
沖野岩三郎伝」でも
少し触れましたが、
この評伝の主人公の牧師作家・沖野岩三郎が、
生涯の「心の友」として親交を続けた人物であり、
ミッションスクールの明治学院で神学や
英語を学ぶ同窓だったからです。
歳は沖野の方が賀川より12歳上、
一回りほど離れておりましたが、
お互いに「トルストイの非戦論」に心酔し、日露戦争に反対。
東郷元帥の凱旋パレードなどに
頑として参加を抵抗した同志でした。
というわけで、いま執筆中の拙著「沖野岩三郎伝・続編」の
重要人物として登場する予定ですので、
取材がてら、ちょっと覗いてみたわけです。
ちなみに、明治末期の民主化運動は、
アナーキスト・幸徳秋水らが
大逆事件で弾圧されて頓挫するのですが、
大正にはいって労働運動や農民運動を基盤とする
現実的な大衆社会改革の花盛りを迎えることになります。
ときは、大正6年(1917年)、ロシア革命で皇帝政治が倒され、
大正7年(1918年)、第1次世界大戦によって
ドイツの専制国家が倒され、
いわゆる大正デモクラシーが台頭。
その理論的支柱となったのが、政治学者・東大教授の
吉野作造の「民本主義」の提唱でした。
第1次世界大戦とは、日本をして輸出大国への道を
歩ませる端緒となった戦争ですが、
戦争成金が続出する好景気をもたらす一方で、
戦後は、再び欧州諸国の商品が市揚にもどってくるや
一転大不況を迎えて米価は高騰、ストライキは頻発。
巷には貧民・棄民が溢れたわけです。
棄民といえば、経済のスケールが違いますので、
平成のサブプライム不況の
「派遣労働者・期間労働者切り」の人員整理とは、
単純に比較は出来ませんが、
この当時も、工場労働者や小作農民から
真っ先に路頭に迷わされたことになります。
米騒動や同盟罷工・・・「民衆の利福」を求める活動が高揚し、
次第に政治・思想等の変化を求める大衆運動に発展。
これが「大正デモクラシー」と呼ばれる時代ですね。
ただデモクラシーといっても、
当時の日本の体制は、ますます軍閥強権を確固たるモノとする
神聖天皇制による君主権国家でしたから、
今考えるような「主権在民」「民主主義」を
標榜することは無理でした。
「民“主”主義」は大日本帝国憲法に反する言葉だったのです。
というわけで、民衆の福利の「運用」を重視する
「民本主義」が、やっと許される範囲のデモクラシーでした。
このささやかな「デモクラシー」の風潮に押されるようにして、
沖野と賀川という社会派の牧師作家が、
ニューフェースとして誕生。
物心両面で痛めつけられ、耳目を封じられてきた大衆や民衆から、
2人は圧倒的に期待され、迎え入れられたわけです。
沖野岩三郎は、大正6年(1917年)、
「大阪朝日新聞」に天皇暗殺未遂・大逆事件の真相を明かす
長編小説「宿命」を公表。
発禁を逃れるために、大逆事件を当時、
頻発し始めたストライキ事件に改作したものだったが、
タブーを破る作家として、一躍、文壇にデビュー。
賀川豊彦も、大正8年、雑誌「改造」に貧民窟の実態を描く
長編小説「死線を越えて」を発表。
賀川の小説は100万部のベストセラーとなったわけです。
※1 http://www.kobe-np.co.jp/info/bungakukan/index.html
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