第63回
「75歳? 引退なんてトンでもない!」
僕たちの会員雑誌「いのちの手帖」第5号掲載の
≪特集 作家に学ぶ! 長寿人生をどう生きるか?≫
出版評論家・塩澤実信さんの
作家・野上弥生子さんと、その担当をし、
岩波書店を経て筑摩書房の社長を勤め、
これまた長寿を全うした布川角左衛門さんの
秘話エッセイの続きです。
*
岩波書店に入社した布川氏は、
恩人一家と編集者としての対応が始まりますが、
氏の「編集者の思い出」の冒頭には次のように書かれています。
「私は、昭和の初めから約30年、
岩波書店の編集部の一員として、多くの碩学に接した。
いうまでもなく、編集部の仕事は、出版の業務関係が主であるが、
それには同時に著作者との間に自らパーソナルなものが伴う。
従って、それらの方々が私に与えられた知遇の恩恵は、
私の生涯にとって何ものにも代えることのできない
貴重なものであった。」
その恩恵の1つに野上一家との深い縁があったことは、
言うまでもありません。
恩師は昭和50年に死去されましたが、
師亡き後は弥生子夫人に伺候する流れになりました。
布川氏は1950年に岩波書店を定年退職して、
栗田書店社長、78歳で筑摩書房の
管財人・代表取締役などの要職を歴任。
その傍ら膨大な出版関係の資料を集めて、
布川出版研究所を主催していました。
出版社の生き字引的存在と畏敬される立場になり、
75歳を迎えた年のことでした。
弥生子先生を訪問した折に、
「わたしはもう75歳になりました。
そろそろ引退しなければと・・・」と、
近況を語り始めますと、
それまで慈母の微笑を浮かべていた卒寿作家の横顔に、
きびしい影が走ったと言います。
文化賞作家は、
15歳年下の布川角左衛門氏の言葉をさえぎるように、
「何を言うんですか。わたしは90歳になって、
やっと文章らしい文章が書けるようになったんですよ。
あなたは、まだ75歳だというのに、
引退なんてとんでもないことです。
あなたの人生は、これからです。これからですよ」と、
毅然として言われたそうです。
その語調には、
卒寿に達した人には見られない気魄がこもっていた、
といいます。
布川氏は、このとき以来、
年齢によって人生の舞台から降りる考えに封印され、
78歳から倒産した筑摩書房の再建に尽くされたのです。
私は40代半ばで出版社を辞め、
出版ジャーナリストの看板を掲げて、
布川角左衛門氏に私淑することになりましたが、
最初に言われた言葉は「まだ若い。これからだよ」
の未来思考にあふれた励ましでした。
そして、「これからだ」の励ましで、
日本最高齢の現代作家・野上弥生子先生から
箴訓(しんくん)されたときの場面を、
感動の面持ちであらわに語ってくれるのでした。
野上先生の謦咳(けいがい)に接する機会は持ちませんでしたが、
布川角左衛門氏に私淑したことから、
間接的に「長寿人生をいかに生きるべきか」の心がまえを
示唆された思いです。
人生は、いくつになっても「これから」です。
*
「いのちの手帖」には他にも長寿秘話エッセイが
たくさん載っています。
興味のある方は読んでみてください。
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