第45回
長生きすると、思わぬ「運」も「縁」も掴むものです
前回、この夏に台北の「天仙液・患者大会」に出席して、
生きる勇気を多くの人たちと共有したという話を書きましたが、
さらに、台湾東海岸の花蓮(かれん)や太魯閤(タロコ)という
避暑地に行って、思わぬ機縁を、もう1つ掴みました。
僕は、前に「大正霊戦記
大逆事件異聞 沖野岩三郎伝」という
ノンフィクション評伝を出版したことを書きました。
100年前に「天皇暗殺未遂」の大逆事件がありまして、
これは前代未聞の暗黒裁判で、
当時の自由主義者で天才的論客の幸徳秋水ら12名が
絞首刑にされた大事件ですが、
この本は、その事件で奇跡的に嫌疑を免れて告発作家となり、
軍閥体制の弾圧にもめげずに人生を全うした、
沖野岩三郎というクリスチャン作家の
80年の数奇な運命を描いたものです。
じつは、この沖野岩三郎という作家は、
僕の母の養父にあたる人で、なんと80年ほど前に、
この花蓮や太魯閤に来て講演旅行をしていたことが
当地に来て分かったのです。
まさに「機縁」ですね。
すでに、拙著「大正霊戦記」を読んだ人はお分かりでしょうが、
(お蔭様で、只今、増刷して全国書店で発売中)
沖野は獄に繋がれた仲間たちの支援をしつつ、
自らも「不穏分子」「非国民」と烙印をおされ、
刑事の監視、尾行に付きまとわれる
難儀な日々を送っていましたから、運命の不幸を嘆きました。
しかし、若き日には明治学院の神学部に学び、
のちに世界的な社会運動家として有名になった牧師・賀川豊彦や
衆議院の副議長になった杉山元治郎らと
日露戦争反対運動を起こし、
「非戦、自由、平等」の理想を目指して、
宗教人道主義を実践してきた人でした。
「私は弱いときに強い」と云う聖句を支えに、
「悩んでいるだけでは意味がない」
「運命をあきらめるのではなく、それを乗り超えて
自由を勝ち取ることこそ人間の生き方だ」
と自らを鼓舞。
当時、多くの有名作家が弾圧の恐怖に沈黙していましたが、
沖野は一人、200冊に及ぶ筆戦と1000回を超える舌戦で、
事件の真相告発と、来るべき民主国家の夢を訴え続けたわけです。
大正から昭和初期かけては凄まじいばかりの多作の人でした。
とくに、この事件の長編告発小説「宿命」を発表した
大阪朝日新聞を始め、やまと新聞、報知新聞、
福岡日日新聞、東京朝日新聞などに日刊連載、
さらに改造、雄弁、中央公論、婦人倶楽部、婦人之友、
主婦之友、婦人公論、文藝春秋などなど
雑誌連載に筆の休まる閑がなかったほどですが、
昭和の初年には、植民地だった台湾日日新報という日刊新聞にも
「蒼白い女」という小説や随筆を連載し、
講演旅行にも出かけていたわけです。
沖野の台湾での様子を掲載した昔の新聞記事については、
同行のKさんが台湾大学の図書館で丁寧に調べてくれたのですが、
昭和10年1月18日の台湾日日新報に、
「きのふ 着北の文芸家一行」と題して、
4人の人気作家が台北に到着した模様が
写真入で報じられていました。
沖野岩三郎は作家の馬場孤蝶、村松梢風、平山芦江らと
講演に来たようです。
その上には旧大韓帝国皇族の
「御着台の李王垠殿下」という記事が載っています。
日本の軍閥体制がますます侵略化、
権力化する時代だったわけですが、
波乱の人生を歩み続けた沖野は
「人の運命」という命題で講演をしたようでした。
沖野が「人の運命」と題してどんな話をしたのか?
興味のある人は「週刊いのちの手帖WEB版」
に書きましたので、そちらを読んでほしいのですが、
たった1回の人生、あきらめずに長生きすることは、
ほんとうに興味の尽きないものだナァとつくづく感じました。
僕の場合、祖父・沖野岩三郎の波乱の人生には及びませんが、
人間の運命とは不思議なものです。
予想もできない「運」も「縁」掴むものですね。
「危機をチャンスに変えて運命も凌駕する」――、
こと病気の災難に限りませんが、
信念や信仰心を大切にして、生きる勇気を鼓舞することが、
思わぬ「運や縁」を呼び込んで、
人生の希望の道を開く――
これはほんとうではないでしょうか?
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