中国古典の新しさ-あとがきのまたあとがき

私が文章書きとして、早くに取りあげたことで、最近ブームをよんでいる分野が結構たくさんある。日本人の大好きな「日本人論」もそうだし、「漢方の話」にしてもそうである。この『東洋の思想家たち』なども、最近の中国古典ブームの遥かハシリの方だと言ってよいだろう。
明治以後の日本は、欧米に学ぶことからはじまったから、当然のことながら、中国の古典は時代遅れのものと考えられるようになった。戦前はそれでもまだよかったが、戦後になると、漢字の制限までやるようになったから、中国の古典どころか、戦前の日本の小説でさえ読めない人ばかりになってしまった。制度にしても、文化にしても、すべて欧米流の物差しではかるようになり、食べる物でさえ、チューインガムからはじまって、コカコーラ、さらにハンバーグと、アメリカ直輸入の嗜好に変わっていった。
そうした傾向に対して私は異議を唱える立場にはいないが、一つの風俗ができあがると、前にあったものが忘れられるばかりでなく、逆に稀少価値を持つようになる。私より若い作家たちの文章を見ていると、やたらに難しい漢字の熟語を使い、しかもその使い方が間違っている。
どうしてか、と不思議に思ったが、カタカナで育った本人たちにとって、やたらに漢字を羅列することは、カタカナで文章を綴るよりも、もっとずっと新しいタッチに感じられるらしいのである。
そういう時代になれば、中国の古典だって新鮮なものとして蘇ってくるのではないだろうか。
「温故知新」というコトバがあるが、何千年来の中国人や日本人の精神を支配してきた思想や知恵をもう一度、勉強してみたら、案外、新しい発見があるのではなかろうか。そう思って、私が「論語」から「荘子」「韓非子」と読んでいくと、意外や意外、私より若い人だけでなく、私にとっても、中国の古典は目のさめるような新鮮なものであった。その感激をもとにして書いたのがこの本であり、ついこの間のことのように思うが、初版が講談社から出版されてからすでに二十四年たってしまった。四半世紀たって再び古典ブームのリピートだが、古典というのはファッション性を持っているのかもしれない。ついでに申せば『東洋の思想家たち』の初版本は黒に赤い縁のついた立派な装幀で、内容の方は一向に認められなかったが、装幀展覧会で大賞をもらった。人間が褒められない場合はネクタイを褒めろ、と言った人があるが、装幀を褒められても、著者は案外悪い気持ちのしないものである。

 昭和五十七年六月吉日
                                邱永漢

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