それから二十年の歳月がすぎた。その間にホンダは世界のホンダに成長し、やがて本田・藤沢のコンビが同時に社長、副社長をやめて、部下にバトン・タッチをするという胸のすくような交代劇があった。私はその少し前に『経営者会報』という大阪で出ている雑誌で、「儲け話」という戦後派財界人の出世物語を連載し、その第一回目に本田さんのことを書いた。もう既に押しも押されもせぬ大企業の社長になったあとだったので、世間は私が大企業の社長のことを取り上げたのだろうと思ったようだが、私が取り上げたのは、小学校しかでていない自動車の修理工がいかにして自転車のうしろに通信機用の発動機をつけてヤミ米買いに役立たせたか、それがマン島のオートレースで優勝するような素晴らしい技術をもった企業にまで成長したか、そのいきさつを述べて、これから人生のスタートを切ろうとする若者たちに勇気をあたえようと思ったからであった。本田さんの成功物語については今日、知らない人はいないから、ここでは改めてくりかえさないが、一つの商品をつくって全世界の人々から受け入れられ、その情熱を打ち込んだ事業で世界最高の評価を受けたという意味で、この人ほど幸福な男はいないのではあるまいか。
本田技研の社長をクビになった(本田さん自身の表現によれば)本田さんは銀座にオフィスをもち、いままでオートバイ屋の事業に打ち込んでいたときにはできなかったことに余生を打ち込むようになった。その中の一つは売春対策審議会の会長というのがある。本田さんにいわせると、自分の方は売春ではなくて、買春の経験者だから「学識経験者」として任命されたのだろうと、たいへんなはしゃぎようである。そのはしゃぎっぷりがあんまりおかしかったので、
「うちに食事にきませんか」とお誘いしたら、奥さんづれで気軽に我が家までお見えになった。
昭和五十六年七月十一日のことで、その夜のお客は、妙なとりあわせだが、大島渚、小山明子の夫妻、嶋中鵬二夫妻、それに朝日新聞編集局次長の柴田俊治氏である。

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