それから二十年の歳月がすぎた。その間にホンダは世界のホンダに成長し、やがて本田・藤沢のコンビが同時に社長、副社長をやめて、部下にバトン・タッチをするという胸のすくような交代劇があった。私はその少し前に『経営者会報』という大阪で出ている雑誌で、「儲け話」という戦後派財界人の出世物語を連載し、その第一回目に本田さんのことを書いた。もう既に押しも押されもせぬ大企業の社長になったあとだったので、世間は私が大企業の社長のことを取り上げたのだろうと思ったようだが、私が取り上げたのは、小学校しかでていない自動車の修理工がいかにして自転車のうしろに通信機用の発動機をつけてヤミ米買いに役立たせたか、それがマン島のオートレースで優勝するような素晴らしい技術をもった企業にまで成長したか、そのいきさつを述べて、これから人生のスタートを切ろうとする若者たちに勇気をあたえようと思ったからであった。本田さんの成功物語については今日、知らない人はいないから、ここでは改めてくりかえさないが、一つの商品をつくって全世界の人々から受け入れられ、その情熱を打ち込んだ事業で世界最高の評価を受けたという意味で、この人ほど幸福な男はいないのではあるまいか。 |
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