大食いが長寿と関係あることは前にも述べたが、我が家に食事にみえる人々の中には大食漢がことのほか多い。今日出海さんは、鎌倉の自宅へ帰るのに、宴会のあと、新橋駅でまた駅弁を買って食べながら帰るときいた。佐藤春夫先生は、はじめて私の家にお見えになったとき、わずか同席七人で十二人分の料理をペロリと平らげてしまった。谷川徹三先生と脇村義太郎先生が私の家に見えたのは、昭和五十六年五月十六日のことであるが、確か谷川先生は八十六歳、脇村先生は八十歳になっておられた。お二人ともぼけるどころか、意識鮮明、同じことを二度くりかえすような会話はまったく見られず、服の着方から趣味のもち方まで、いわゆる年寄り臭さを感じさせなかった。それにお二人とも稀代の食いしん坊ときている。
谷川先生には、職業柄、小説家たちの会合で何回かお目にかかったことがあるが、特に親しくお話をする機会はなかった。脇村先生は、元東大経済学部の教授で、私は東大経済学部の出身だから、教室でお目にかかっていそうなものであるが、お会いしたのは、市村清さんと三人で対談をした一回だけ。というのは私が東大に入学したのは昭和十七年十月で、そのときは既に大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎の三教授は軍部の圧力で自由主義者のレッテルを貼られて追放されたあとであった。三教授が東大に返り咲いた戦後は、今度は私の方が卒業してしまったあとだった。つまり私は軍国主義下の日本で大学教育を受けたことになるが、幸か不幸か、私は台湾の出身で、台湾人と朝鮮人はスパイを働くおそれがあるというので、軍需省への勤労奉仕を断られた。おかげで空襲のさなかだというのに経済学部の研究室に残り、禁書になっていたマルキシズムの本をはじめ、万巻の書の中に埋まって青春の一時をすごすことができたのである。
しかし、戦後、大学へ戻ってきた三教授の中では、大内兵衛教授が最もスタンド・プレーがうまく、その裏表のあるやり方が気にくわなかった。ちょうど帰国の便があるようになったので、私は大学院を中途で故郷へ帰ってしまったが、どちらかといえば、三人の先生方を一束にされて軍部に追放されたためにトクをした人たちと見ていた。しかし、仔細に観察していると、三人三様で、学問に対する態度も違うし、お人柄も皆、全然似ていない。殊に脇村先生は『趣味の価値』とか『東西書肆考』とかいった本職以外の著書などがあって、ワインの歴史から腕時計の銘柄までなんでも興味をもっておられ、余技のことについてやたらと造詣が深い。
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