しかし、私は天下の情勢がどういう方向に向かっているのか、私なりの判断をもっていたので、先行きに対してもう少し楽観的であった。韓国のKCIAにあたる組織が台湾にもあり、そこの局長の親書を持って副局長が東京の私の家を訪れた。まず帰国する時日をとりきめ、副局長が一足先に帰って飛行場でどうやって私を迎えるか、段取りをすることになった。予定の日に私が松山の飛行場でタラップをおりると、百名に及ぶ新聞記者やテレビ記者にワッと取りかこまれた。それから約一週間、私が台湾に滞在している間中、新聞という新聞が見開きで私の行動や経歴の報道をしたので、私はジャングルから帰ってきた横井庄一氏や小野田少尉に負けないくらい有名になってしまった。どこへ行っても私は盛大な歓迎を受け、昼も夜も、高位高宮や大実業家たちの主賓になった。二十四年もたてば社会の階層も一変するが、料理屋の地図も一変する。私は知らない人たちから、いままで聞いたこともないような一流の中華料理屋につぎつぎと案内された。かねて風の便りに台北の事情を書いていた私は、「蒋介石が台湾へ遷都してきてやった唯一の善政は、料理の水準があがったことだ」と文章にも書いたことがあるが、台北へ帰ってみて本当に台北が昔と比較にならないくらい料理天国になっているのに改めて感心した。
このことは前にほかのところでも書いたことがあるが、中国は広大なところなので、中原を制したものは事実上、天下をとったことになる。だから天下をとったものは僻地の実力者たちに対しては、なんとか鎮撫使とか、なんとか大将軍の称号をあたえ、その代わりに忠誠を誓わせ、貢ぎ物を献上させることで妥協するのが通例であった。そうでもしなければ、戦争また戦争の連続で、寧日ない一生を送ることになってしまうからである。ところが、毛沢東だけはこの慣例を破り、全国隅々まで軍閥、地主、資本家階級を徹底的に掃蕩したので、いわゆる土豪劣紳は、一にアメリカ、二に香港、三に台湾へと生命カラガラ落ちのびた。中国の金持ちたちは、コックや執事を抱えているから、逃げるときは、一族郎党みな連れて逃げる。全大陸の料理が台北という人口二百万の都市に集中して、さながら「小中国(リトル・チャイナ)」の様相を呈するようになったのは以上のいきさつからである。

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