二十五、政情が描く台湾の料理地図

昭和四十七年四月二日、私は二十四年ぶりに、生まれ故郷の台湾へ帰った。長い間、くにへ帰らなかったのは、台湾の将来をどうするかについて国民政府と相容れない意見をもっていたからであった。
しかし、四十六年の秋に、中華民国が国連から脱退するという事件がおこり、台湾の政府としては、将来どうするかという決断を迫られる緊迫した状態に追い込まれた。国民政府では、私のような反対者が国外で反政府運動をやるのはかなわないと思ったのであろう。年の暮れから春にかけて、三回ばかり使者を私のところへよこして、台湾へ帰ってくれないか、と打診をしてきた。一回目は、国民党本部の海外工作班の人であったが、二回目は私の東大の先輩であり、国民党の副秘書長をつとめる林金生氏であった。その後、林氏は内政部長(内務大臣)、つづけて交通部長(運輸大臣)を歴任し、先年、向田邦子さんらをのせた遠東航空の飛行機が墜落事故を起こしたあと、責任をとって辞められたが、台湾省出身としては、出世頭の方であった。
その林氏が私の家へこられたのは四十七年の二月十一日で、私にとっては自分の運命を大きく変える大事な日だったので、気心知れた安岡章太郎さんと中央公論社社長の嶋中鵬二さんに同席してもらった。将来、もし私が台湾へ戻って、金大中事件(当時はまだ発生していなかったが)みたいなことにでもなった場合のことを想定したからであった。
国事犯として首に懸賞をかけられた人間としては、事前の根回しがあるとはいえ、自らすすんで故国へ帰るのにはかなりの勇気が必要だった。何もしないで日本へ残り、遠吠えでもやっておれば、絹のハンカチが汚れないくらいのことは私も承知している。しかし、私は台湾の経済的安定がなければ、将来は暗いものになるし、その点では、大陸から逃げてきた人も、台湾に昔からいる本省人と呼ばれる人々も共通の利害関係をもっているから、多少なりと経済繁栄のためのお手伝いをし、内部から政策に影響するやり方も、有効な方法の一つではないかと考えた。安岡さんは文士らしい気ままさで、「やめておいた方がいいよ」という意見だったが、嶋中さんは私が帰る決心をしていることを知ると、夫妻でうちの女房を訪ね、「身内のつもりでいますから、困ったことがあったら、何でもおっしゃって下さい」と力づけてくれた。女房は中国の政治の陰惨な面を知っているので、私が台湾へ連れて行かれて、爪をはいで塩水に漬けられるような拷問にでもかけられるのではないかと心配したのである。

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