、五味康祐、そして有馬頼義

年齢的にはほぼ同じでも、五味康祐と有馬頼義は、いわゆる"第三の新人"とは少しばかり毛色が違う。「同時代に育てば、同時代人としての共感がある」というが、これだけ距たりがあると、個性や環境の差の方がずっと大きいような気もしないではない。

私の家に遊びに来た頃の五味さんは「喪神」で芥川賞をとり、つづけて「柳生連也斎」などで剣客物の流行作家にのしあがっていく前後であったが、いつも久留米絣に兵児帯、髪毛は伸び放題で、ヒゲも剃るのが面倒といった後々の風貌を既にそなえていた。なんでも、戦争中、兵隊にとられて、クリークの中で大地に耳をあてて徹夜しているうちに、耳が突然、きこえなくなってしまったそうで、よほど大きな声で話しかけないと、「へーえ?」と何度でもききかえす。「この人、本当に耳が悪いらしい」と安心して、小さな声で話をすると、悪口か、内緒話のときに限って、ちゃんときこえてしまうのである。本当に耳がきこえないなら、ステレオにこり、原稿料で稼いだ金を、家そのものより、ステレオ設備にゴッソリ注ぎ込むようなことはやらなかった筈である。

五味さんは大阪の映画館の息子で、子供のときは金に不自由しない育ち方をしたと自分で書いているが、作家として一人立ちする前は新潮社で、校正係をアルバイトにしていた一時期があった。小説を書きはじめたとき、真っ先にその才能を認めたのが檀一雄さんで、檀さんが推奨した途端に、芥川賞になったので、檀さんは友人たちにいつも自慢をして、「右に五味康祐、左に邱永漢、ここまではうまくいったが、第三の男を見つけなくっちゃ」と吹聴していたそうである。
そのおかげで、私は五味さんとも知り合いになり、五味さんの石神井の家に訪ねて行ったこともあった。のちに、五味さんは、大阪の昆布屋の旦那で占いに一生を賭けた人に手ほどきをしてもらい、晩年はもっぱら意地で「占い師」的なポーズをとり、また実際にテレビに出て、盛んに桃色がかった占いをやったが、若いときから既にそのキザシが見えていた。五体に欠陥があって、それを克服して生きる行者のようなポーズをとっているので、つい話をしていることにきき耳を立ててしまうが、よくきいていると、どこまでが真実で、どこからが創作なのか、さだかでないところがある。
たとえば、五味さんに、彼女ができて、家庭争議になった頃、彼は私に、「うちの女房は子宮の病気で、子宮をとってしまったから、もう子供のできる見込みはないんだよ」だから自分はほかの女に心を移しているんだよ、といわんばかりの顔をした。私は本気にして「へーえ、それはお気の毒に」と同情したことがあるが、しばらくすると、女の子が生まれたから、私は我が耳を疑った。あとになって考えてみると、新宿の女に夢中になっていたときは、夢と現実のさだかでない世界に住んでいて、自分で自分にそういいきかせ、自分でそう信じ込んでいたのかもしれない。檀一雄さんが心配をして、佐藤春夫先生に「五味君を説教して下さい」と頼みに行ったことがあるが、この道にかけては、佐藤先生も檀さんも、つわものだから、どうやって説教するのだろうかとこちらが気をもんでしまう。そのうちに五味さんは大泉学園に新居を建てて移り住んだが、その新築祝いに佐藤春夫先生が招ばれて行った。

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