私が文士業に転向すべく、東京へ戻ってきたのが昭和二十九年四月だから、東京在住になってから既に三十年近い。私の生涯において最も長く住んだところであるばかりでなく、今後も、よほど大きな変化でもないかぎり、住みつづけることになるだろう。その東京へやってきて、私が一番はじめに正式に人を招待したのが昭和二十九年九月二十二日であり、以後、今日に至るまで招待した人たちの当日の「菜単」(メニュー)と名簿の大半が我が家にそのまま残っている。

人を招待したことくらい何でもないことであり、自慢になることでもないが、三十年近い歳月がたってみると、ちょっとした我が家の歴史になっている。とりわけ戦後の文人墨客の中で、我が家にお見えになった人も結構たくさんいるので、食卓を前にして誰がどんなことを喋ったということを記録しておくと、案外、「食事をとおして見た日本の文化外史」を物語ることになるような気もしないではない。どちらにしても天下の帰趨とはあまり関係のない、文字通りの、「日常茶飯事」であるが、食卓の話題は楽しいものだし、天下の一大事や一家の運命とあまりかかわりのない閑話として読んでいただきたい。

さて、私がどうして、我が家で真っ先にお客をしたのが昭和二十九年九月二十三日と明言できるかというと、私の手元に当日のメニューが残っているからである。のちに、私のうちのメニューはすべて色紙に書かれ、当日のお客が署名するように改められたが、一番はじめの分は、原稿用紙に私が自分で書きこんでいる。その原稿用紙を見ると、「満寿屋製」と印刷されている。

それで思い出したが、満寿屋の原稿用紙を使うようになった因縁話がある。東京に往む前、私は香港に六年ばかり住んでいた。香港に流れて行った原因や香港での生活についてはほかにも書いたことがあるので、ここで改めてくりかえさないが、香港生活の最後の頃は、年に二回くらい香港と東京の間を往復していた。たまたま台湾の友人の一人が、政治亡命のために、香港経由で、日本へ密入国をし、昔、勉強していた東大文学部に再度、入学していた。密入国しても、ちゃんと大学へ戻れたのは、学籍があったことと、もともと台湾人は日本籍だったからであるが、終戦後、台湾人は中国人ということになってしまった。私の友人は既に結婚していて、子供も一人あったので、妻が娘を抱いて、観光ピザをもらって日本へ入国し、東京に同居していた。観光ビザは二ヵ月しか滞在期間がなく、理由をつけて延期しても、二回しか延期はできない。六ヵ月の期限が切れる直前になって、友人は自分が名乗り出て、請願をすれば、滞在許可をもらうことも可能と考え、出入国管理局に自首してでた。出入国管理局が不法滞在について法廷に訴えたので、裁判になり、一審でも二審でも「強制退去」と宣告され、ちょうど最終審のときに、私が東京に来ていてその話をきいた。

私も似たような立場だったし、友人の立場に同情し、裁判長に訴えるために東京にいる間に、二、三日で「密入国者の手記」という五十枚ばかりの小説を書きあげた。当時、私は文壇とはまったく無縁で、知っている人といえば、講談社の『キング』や『講談倶楽部』で大衆小説を書いていた西川満氏だけだった。西川氏はかつて『台湾日々新報』の学芸部長をやっていたことがあり、媽祖書房とか日孝山房とかいった限定本の出版元として知られており、中学生から高校生であった時分、文学青年だった私がずいぶんお世話になった人である。私は書きあがった原稿を持って阿佐ケ谷に住む西川氏を訪ねた。西川氏は、私の原稿を見ると、自分は長谷川伸先生の研究会に所属しているから、あすこの勉強会で読んで、皆の批評を仰ぐことにしようと親切にいってくれた。
そのとき、西川氏は私が街で売っている貧弱な原稿用紙を使っているのを見て、原稿用紙は満寿屋のがいいですよ、と教えてくれた。
「長谷川伸先生も、丹羽文雄さんも、坂口安吾さんも、川端康成さんも、みんな満寿屋の原稿用紙を使っています。まあ、プロはみな、あの原稿用紙を使っていますね」
「じゃ、すみませんが、その原稿用紙を買って、航空便で香港まで送ってくださいませんか」と私はお願いした。

西川さんは小まめな人で、すぐに約束をはたしてくれ、長谷川伸先生の勉強会である新鷹会で私の原稿を読んだところ、山岡荘八氏も村上元三氏も激賞してくれ、君がどれだけ手を入れたか、ときくから、一行も手を入れていないといったら、じゃ才能がある人だから、ガンバるようにいってくれ、といわれた旨、手紙をくださった。同時に、満寿屋の原稿用紙をドサリと送ってくれた。

駈け出しのときに、先輩に賞められることくらい勇気づけになることはない。菊池寛の半自叙伝を読んでも、新人の批評については、慎重でなければならない旨、何回もくどくどと述べている。おそらく誰にとっても思い当たるフシのあることであろう。おかげで、私はすっかり自信がつき、すすめられるままに、『オール読物』新人杯の募集小説に香港から応募してみた。そうしたら、私の書いた「龍福物語」という百枚の原稿が九百何十篇ある応募小説の中で、最後の五篇に残った。五人いた審査員の中で、尾崎士郎、小山いと子の両氏が賛成したが、他の三氏が反対したために、私は受賞からもれた。しかし、二作目に書いた小説がオープン戦で最後まで残ったことが私に自信をもたらし、私が小説家になる動機となった。のちに、文塾春秋の人と一緒になったら、原稿が香港から送られてきたことと、その原稿にプロの使う原稿用紙が使ってあったことが予選の編集者たちの注目をひいたんだよ、といわれた。あるいはその通りかもしれない。以来、直木賞をもらうまでの間、私はずっと満寿屋の原稿用紙を使っていた。
一番最初のメニューを見ると、この満寿屋の原稿用紙に、出席者は、佐藤春夫、佐藤千代夫人、檀一雄、加賀淳子、同ご主人・鶴野峯正と私が自分の筆で書いてある。

   4

←前章へ

   

次章へ→
目次へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ