私にいわせれば、「商売のために人にご馳走をする」のも大切だが、商売の必要がおこってからご馳走をするのでは、やや遅きに失する。むしろふだんから往き来があり、酒食を共にする仲問であって、一旦緩急ある場合に、力を貸してもらうというのが順当ではないだろうか。中国の諺にも、「養兵千日、用兵一天」とあるように、いざ戦争になってから、兵隊や馬をかきあつめるのでは間に合わないのである。そういう言い方をすると、私が人をご馳走するのも、遠謀深慮があってやっているように思われかねないが、私の場合はもう少し動機が純粋だといってよいだろう。食いしん坊同士が集まって、同じ食卓をかこみ、「今日の料理はおいしかった」「いや、あれは出来が悪かった」「どうして出来が悪かったのか」と、あまり毒にならない意見を述べあい、また楽しい世問話に花を咲かせることができたら、それで満足する方だからである。

しかし、そのためには誰が食事に興味を持ち、誰が食べ物に無関心か、ふだんから気をつけていなければならない。大宅壮一先生は「醤油とソースの区別がつかなかった」という伝説があるくらい味オンチだそうであるが、現存する有名人のなかにも、「食事については何を食べても同じ」という人が意外と多い。ある人は私に、「自分は料理には全く関心がありません。どうして世間の人はあんなに何がうまくて、何がまずい、とうるさいことをいうのでしょうね」と疑間を投げかけた。私は笑って、「ああ、そうですか?」と答えただけで、別に反論もしなかったが、この人は家へ招待しないことにした。食べることに楽しみを見出せないなんて気の毒な人だなあとは思うが、この人は、いつ会うときも、違った女性を連れて歩いている。女を二人連れて、三人で同じ部屋に泊っているところを目撃したこともある。だから、「人間、それぞれに楽しみが違うものだなあ」と思ったものである。

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