またある人が、「自分にとって食事はどうでもいいことだ。もっと心をひかれることが世の中にはたくさんある」と雑誌に書いているのを読んだことがある。そういう人を聞違っても招待しないように、ちゃんと記憶にとどめておくのも、考えてみれば、余計な作業であるが、そういう形で私に覚えられている人も世の中にはあるのである。食べ物に関心のない人がどういう視点から社会現象や文化現象をとらえるのか、私には興味がある。したがって、味オンチが縁になって、私がその人の文章を、目にふれる度に読んでいるというケースもある。ただ惜しむらくは、味に関心を示さない分だけ、味わいのうすい文章になっていることも事実だ。 味にまったく関心を示さない人だとか、何を食べても同じだという人も、けっして少なくないが、味に関心をもっている人は遥かに多い。世の中が豊かになるにつれて、その人数はふえる方向にある。文章を書く人のなかにもそういう人は多いし、俳優とか映画評論家とか声楽家のなかにも、食いしん坊であることが病こうじて遂に食味評論家とか食通になってしまった例もある。そういう人のなかにも、ホンモノとニセモノがまじっているし、ただのジレッタントもおれば、ただのリクツ屋もまじっている。世の中の他の世界で起こっているようなことが、この世界にもちゃんと起こっているのである。しかし、そういう人たちは、ホンモノ、ニセモノ含めてすべて我が家のお客様である。ニセモノには、私はニセモノです、と貼り札がしてあるわけではないし、ニセモノほど本物にニセてあるから、とても私では区別がつかない。ニセモノだって、食事には熱心だから、「何を食べても同じ」人よりは、我が党の士であることに変わりはないのである。
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