Qさんは、かつて「知恵は借り物でも知恵である」と書きました
そういうことをおっしゃる人の知恵ならいくら借りてもモンクは出ませんね

第987回
とっさにセミナーでのスピーチ内容を変えました

北京でのセミナーは
三全公寓のなかにあるイタリア料理店、
イル・リミオーネの一番広い部屋で行われました。
そしてこの部屋の一隅に、邱さんご夫妻が
中国大使の阿南惟茂(あなみこれしげ)さん、
阿南ヴァージニア史代さんほか、
多くの方々と一緒に撮られた写真が
かけられていることを知りました。

中国大使の阿南惟茂さんは、
終戦を迎える直前まで、陸軍大臣をつとめ、
ポツダム宣言受諾の直前
“一死以て大罪を謝し奉る”との遺書を残して
自刃された阿南惟幾(これちか)さんの6男で、
その3男で、惟茂さんのお兄さんにあたる
阿南惟正(これまさ)さんが
私が新日鉄に勤めていたときの上司です。

もう、30年近く前の、
第二次オイルショックのあった頃のことですが、
実は、この阿南惟正さんが、
「日経連」(今の「日本経済団体連合会」)で
「定年問題」を考える会合の委員長になり、
“かばん持ち”として私を選んでくださり、
私はある日、皇居付近の日本工業倶楽部という
古めかしい建物の会議室に入っていきました。
そこには民間企業の人事担当者が大勢、集まり、
「定年問題」への対処を含め、
今後の人事や教育の諸施策を
討議する場であることを知りました。
以降、その場所で、6ヶ月にわたって討議が続けられ、
私は阿南惟正さんに命じられるまま、
討議結果にもとづいて、提言書を書きあげました。

実は、そのことがきっかけになって、
サラリーマンライフの行く末にある
「定年」という問題について考えるようになり、
「どなたか、参考になりそうなことを
おっしゃっている人がいないかなあ」
とさがし求める過程で、
邱さんの文書に出会うのです。

その結果、私は同期生たちとは
多少、異なる道を歩むようになります。
そんなこともあって、20数年たったのち、
邱さんに命名していただいた
『あなたも賢者になれる−私は邱永漢の知恵を借りた』
という本がうまれたとき、
一番に届けたのが、阿南惟正さんで、
先輩諸氏のなかで
一番最初に激励の電話をくださったのも
阿南惟正さんでした。

そうだ、今日は投資の話よりも、
私における転機の話をすることにしようと思い
定年年齢の10年前に会社を飛び出して、
第二の人生に踏み出すという体験を
かいつまんでお話させていただきました。


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