第909回
亡命当時の邱さんの恐れたことは餓死すること
若き日の邱さんの活動の足跡を
探訪するツアーの続きです。
邱さんは、はじめて香港を訪れたとき、
「船底の奴隷部屋から一等船室に這い出してきて、
海から吹いてくる新鮮な風に
当たっているような気がした」
(私の見た香港の前途 『金銭通は人間通』)
という印象を持ちました。
でも亡命して、
実際に香港に身をおくことになると、
香港は違った形相をして、
迫ってきたようです。
「亡命してとび出してきた香港は、
お世辞にも一等船室とは言いがたかった。
というのはお金もなく、言葉も通じず、知人もなく、
その上、学歴が何の役にも立たない異郷は、
自由があるといっても
『滅亡する自由、餓死する自由、自殺する自由、
およそ人間として失格せざるを得ないような種類の自由』
(拙著『香港』中公文庫版)でしかなかったからである。」
(同上)
当時の邱さんの心境を追ってみましょう。
「自由港の香港は、日本などと違って
ファッション製品から
自家用自動車まですべての商品が
まぶしいばかりに溢れていて、
金のない若者にとっては高値の花というより
目には毒であった。
しかし、それにも懲りず、
私は夕食後の散歩に、すぐ近くにあった
ギルマン・モーターズの新車の陳列された
ショー・ウインドーの前を通ると、
必ずその前に立ってしばらく中を覗き込んだ。」
でも残念ながら、邱さんは
「一ドルのお金を使うのにも
何回も考えなければならない立場」にありました。
「それなのにショー・ウインドーを覗き込んでいると、
すぐ難民の乞食がそばへ寄ってきて、
お金の無心をする。
あわてて歩き出すと、乞食がどこまでもついてきて、
『1ドルください。お恵み下さい』と言い続ける。
こちらも似たような境遇で、
1ドルもらいたいのはこちらだと思うのに、
どこまでも着いて来るのである。
本当に情けないとしか言いようのない日々であった。」
(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)
当時、邱さんが恐れていたことは
お金を使い果たして、
飢え死にするかもしれない
ということだったようです。
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