第908回
24歳の邱さんは「万事休すか」と思いつめていました
若き日の邱さんの活動の足跡を
探訪するツアーの続きです。
邱さんが香港に亡命し、居候していた
「諾士佛台(英語でナッツフォード)」
というところを訪ねました。
さて、亡命し、
この辺に住むことになった邱さんの心情は
どのようなものだったでしょうか。
あるところで、邱さんは次のように書かれています。
「はじめて香港に流れて行った当時は
1.金も持たず
(ふところに千ドル持っていたが
もう二度と故郷へ帰ることにもならず、
この先、一生、異郷で流浪する身にとっては、
まことに心細い金額であった)、
2.言葉も通ぜず
(台湾語と広東語は
フランス語とドイツ語ほどにも違っていて
お互いにまったく通じない)、
3.学歴も役に立たず
(私は東大を卒業していたが、
のちに香港で知り合った妻は、
東京に移り住むまで私が東大出であることも、
東大の何たるかも知らなかった)、
4.友人も持たず
(わずかに、一足先に政治亡命していた
同郷人の先輩を知っていて、
その人をたよって、約一年居候をした)、
5.就職もできず
(台湾にいたころは、
銀行に一年間勤めて調査課長をやったが、
香港に亡命して以来ついに
再びサラリーマンになることはなかった)、
以上、まったくないないづくしの異国流浪から始まった。
それでも無いものが五つだったから、
徳川末期の六無斎こと林子平に比べれば、まだ一つ少ない。
しかし、さすがの私も弱気になって、
一時は万事休すかと思いつめたこともあった」
(「『少年の夢』が男を旅に駆り立てる」「金銭通は人間通」)
今回の邱さんの足跡探訪ツアーに
参加してくださった人たちは
26歳から62歳と様々な年代にわたっています。
邱さんの越し方についての理解は
まちまちだと思いますが、
邱さんの生きてきた道に通じているという点では
年配者の方に軍配があがるかもしれません。
そういう年配者のひとりとして
福岡から参加されていた62歳の方は
長年、邱さんの本を読み続けてこられていて
この地を訪ねた感想として、
「当時の邱さんのことを思い、胸が熱くなった」
と後日、語られました。
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