第592回
非常識と思われていた邱さんの予測が見事に的中
邱さんが香港投資を薦めたのは昭和63年で、
その翌年には、天安門事件が起こっています。
この事件にビックリして、
香港のマンションへの投資を決めていた人たちの中から
50件ものキャンセルが出ました。
でも邱さんは
「下がるほど勢いをます流れは
途中で岩にぶつかるようなことがあっても、
誰もその方向を遮ることはできない」
(『バブルの後の物語』)と見て、
投資活動を続けました。
はたして、平成3年になると、
海外に移民した香港人が続々と香港に戻り始めました。
カナダでもオーストラリアでも
移民して3年たつと国籍をもらえます。
もともと海外への移民は
国籍をもらうことが目的だったわけで、
多くの香港人が香港に戻ってくると
マンションの不足が目立ち始め、
たちまち香港の不動産は上向きになりました。
続いて、平成4年の1月末になると
ケ小平が深セン、珠海を視察し、
その繁栄ぶりを大いに喜び、
『あと大陸に香港の二つや三つはつくらなくっちゃ』
と話し、とたんに香港の株は空前の高値をつけ、
不動産も大暴騰しました
投資を始めてから4年たったところで
邱さんたちが買った不動産の値段の倍になりましたので、
「非常識と思われていた予測が物の見事に当たってしまった」
(『バブルの後の物語』)という邱さんの後日談です。
邱さんは、行動をともにした人たちの表情を
次のように描写しています。
「私に誘われて一緒に投資をした人たちの喜ぶまいことか。
日本国内ではバブルがはじけて地価も株価も半分になった。
逆に香港は地価も株価も倍になった。
4千万円が2千万円に下がったのと
8千万円に上がっただけの違いがあるから、
上下で4倍のひらきが生じている。
おかげで香港のハンセン指標が
2千から6千へと3倍にもはねあがり、
また不動産の値段も軒並み倍に値上がりした。
私と行動をともにした人々はすっかりニコニコ顔になり、
会う度にお礼をいわれるが、
『センセイ、また似たようなおいしい話はありませんか』
と催促される。」(『バブルの後の物語』)
そして邱さんはこう結んでいます。
「いつもこんなにうまくいくわけではないが、
国際化の時代に国内にかがみこんで
頭を抱え込んでいたのでは事を仕損じる。
こうなったらできるだけ時間をつくって、
外国に行ってみることだ。
日本が駄目なら香港があるさ、
香港が駄目なら大陸があるさ、
広い地球には行くところはまだいくらでもあるさ、である。」
(『バブルの後の物語』)
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