第506回
「人間はいくつになっても迷うもの」
中国哲学を研究した宇野哲人さんの『論語新釈』によると
「四十ニシテ惑ワズ」という孔子の「四十不惑」には
「四十の年には、いかなる事変に出遭っても
道理が明らかに知られて、
疑い迷うようなことがないようになった」
という解釈がほどこされています。
しかし、邱さんは「四十歳になっても大いに迷う」
という自身の体験にもとづき、
現代的な解釈をほどこします。
邱さんの講釈に耳を傾けましょう。
「40歳になってみると、
格別、先の見通しがよくなるわけでもなければ、
分別がついた様子もないことにやっと気づく。
つまり、人間は年をとれば、
人物ができて行くものとは限らず、
スケールの大きな人間になるかどうかは、
本来、年齢とはあまり関係がない。
このことにやっと気がつくことを
『不惑』というのだと解釈すれば、
なるほどと納得できないことでもない。
ある時、井伏鱒二先生と一緒になる機会があって、
酒の席上で、
『四十不惑とは、分別と年齢は関係がない
ということがわかる年齢のことなんですね』
と言ったら井伏先生は、すかさず
『年をとればとるほど分別がなくなるもんですよ』
と応じられた。
これには、思わず笑い出してしまったことがある。
もしそのとおりだとしたら、
『四十不惑』とは
すべてに動じない年齢のことでなくて、
『迷うのは年齢にかかわりがないこと』を
悟る年齢のことだということになる。
つまり人間はいくつになっても迷うもので、
年をとったのにまだ迷っているのは
恥ずかしいと考えること自体がおかしいのである。
だから、40歳になっても迷うのは当然であり、
そのすぐあとに42歳の『男の厄年』が控えているのは
不思議でも何でもないのである。
いわゆる42歳の『男の厄年』は、
数えの42歳だから、満にすれば、41歳である。
しかし個人差があるから、
すべての人にピッタリあてはまるわけでなく、
俗に『前厄』とか『後厄』とかいう区分があるように、
一年早くくる人もあれば、
一年遅れてくる人もある。
ちょうど花に早咲きもあれば、
遅咲きもあるように、
また知能の発育に早い人と遅い人があるように、
ノイローゼになる年齢にも早い遅いがあるのである。
精神的にも肉体的にも、個人差がある」
(『貧しからず 富に溺れず』)
|