第505回
「不惑とは40歳になっても迷うものだと知ることです」
邱さんによれば、
人は年をとっていく過程で、
何度か迷いの叢に踏み込んでいく傾向があり、
最初の迷いは30歳前後にやってきますが、
40歳前後になって
また新しい悩みが起こってくるとのことです。
邱さんは『貧しからず 富に溺れず』で
論語のなかの有名な一節を引用しつつ、
年齢と悩みの関係について、
自説を述べています。
「年齢についての古典の記述の中で、
私たちの印象に一番強く残っているのは、
多分、論語における孔子の言葉であろう。
子曰ク、吾十有五ニシテ、学ニ志ス。
三十ニシテ立ツ。
四十ニシテ惑ワズ、
五十ニシテ天命ヲ知ル。
六十ニシテ耳順(シタガ)フ。
七十ニシテ心欲スル所ニ
従エドモ、矩(ノリ)ヲ踰(コエ)ズ
この文章の中で私たちが最もひっかかるのは、
『四十不惑』という箇所であろう。」
(『貧しからず 富に溺れず』)
さて邱さんは
30歳、40歳、50歳、60歳という区切りのなかで
人間の生き方は
「はたして孔子のいう通りのものなのか、
あるいはそういう目標であってよいのか、
時代にあった形で改めて検討してみる必要がある」
と考えます。
まず「30歳にして立つ」のことですが、邱さんは
自分が30歳のころに将来につながる仕事についたけれど、
「すべての人がこの年齢で独立するわけでもなければ、
また一生の仕事を選べるわけでもないから、
30歳はそういうことを考える
分かれ目の年齢としか言えないであろう」と解釈し、
「(孔子が生きた時代の30歳は)
人生50歳がフツーだった時代の30歳だから、
30歳になってから『立つ』のでは
少々遅すぎるような気もする」
ともおっしゃっています。
一方、「40歳不惑説」についてですが、
「40歳になったら、
途端に何事にも惑わなくなるというのは、
逆に少々早すぎるような気もしないではない。
私自身、不惑の年になっても、
一向に不惑の実感がなかったので、
『不惑』というのを『もうだまされない』年齢
という具合に解釈することにした」
と述べておられます。
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