第142回
しあわせとは目標を立てその達成に努力することです
邱さんの本を読み始めたころのことですが、
『成功の法則』(昭和48年)という本を開くと
「金儲けは人生の目的足りえぬ―いかなる金儲けも、
人生の究極の目的とするにたりない」と書かれていました。
また「お金に命を賭けるな―金はしばしば人を
自殺にまで追い込むが、本当はそれほどの
値打ちのあるものではない」とも書かれていました。
マスコミの人たちから“お金儲けの神様”といわれている人が
「金儲けは人生の目的足りえぬ」とか
「お金は命を賭けるほどの値打ちものではない」とか
おっしゃっているわけで、印象に残る言葉の一つになりました。
と同時に、私は邱さんが人間は生きていく上で、
どういうことに生き甲斐を見出す生き物であると
観察しているのかに関心を持つようになりました。
そんな関心を持ちながら『お金としあわせの組み合わせ』
という本を読むと邱さんは、自分で自分の人生を
締めくくった三島由紀夫さんにふれながら邱さんが
書いている言葉が心に響きました。
「しかし、自分の生死を芝居のごとく演出できる人は、
1万人に1人もいたらよい方であろうか。大抵の人は
『神様がまいてくれたゼンマイが切れるまで』啼き続けるし、
その間中、しあわせを求め続ける。
そのしあわせとは、たとえばお金がいくらあって
使うのに不自由しないとか、手がけた事業が悉く成功して
社会から尊敬の目をもって見られるとか、
セックスの相手に次から次へとめぐりあえて、
夜の生活が楽しかったとか、そういうことを言うのではない。
それらはいずれも、人間にとって
なかなか思い通りにならないものであり、
だからこそ大願成就すれば嬉しいことであるが、
大願はいずれも成就した瞬間に当たり前のことに変貌する。
容易に成就する大願は大願ではない。
王様にとって王様であることは、
別に嬉しいことでも楽しい事でもない。
もしそうした営みの過程に人間のしあわせがあるとすれば、
それは人それぞれに生活の目標があって、
それを実現するために努力をし、
その努力が報いられた瞬間に感ずるものがしあわせであろう。
(略)とすれば、しあわせとは自ら目標を立て、
その達成のために努力することである。
達成できれば嬉しいが、
達成にこぎつけるための努力をしている過程が
楽しいのである。
また自分がふしあわせであるという実感のある人は、
どうすればふしあわせの現状から抜け出せるかを考える。
たとえば病気のある人なら、病気を克服して
元気になることがふしあわせを克服する目標になる」
(『お金としあわせの組み合わせ』(中央公論新社。平成7年)
|