| 第109回原稿の束をかかえて宮益坂を駆けのぼりました
 私は原稿の束を小脇にかかえ、渋谷駅からすこしのぼり勾配になっている
 宮益坂を急ぎ足でかけあがり、
 邱さんの渋谷の事務所に着きました。
 私が邱永漢事務所を訪れたのは4年ぶりのことです。事務所の装いが一新されていることに気づきました
 邱さんはしばしば
 「不況とはお金の循環が悪くなっていることで
 こういうときこそ、お金を使い、
 お金の回りをよくしないといけない」
 という趣旨のことを書いています。
 私は事務所の新しい装いを見て、あらためて
 邱さんが口先だけの人ではないことを確認しました。
 さて、事務所では秘書室長の井口さんが応対してくださいました。「今度、本を出すことになりました。
 先生に目を通していただきたいと願っています」
 「どんなことをお書きになったのですか?」 「僕は30代の半ばから定年のハードルをどう越えるかが大きなテーマでした。
 このテーマと取り組むなかで、先生の文章に出会ったんです。
 先生の文章を読んだことが私の人生の節々で役に立ちました。
 その体験を時を追いながら書いたんです」
 「そうですか。邱さんの本を読み、それがヒントになって助けられたという手紙がたくさん届いているんですよ」
 「そうでしょうね。僕もそういう人たちと同じです。今回書いたのは自分自身の体験記ですが、
 先生の文章をたくさん引用させていただいています。
 その意味ではこの本は邱永漢作品の解説書という趣を
 もっていると思います。その点のご了解をいただきたいと
 考えています」
 片方で、私は本が出版されたあとの売れ行きのことを心配してました。
 「それに、虫のいい話ですが、今度出る本の帯を飾る短い言葉を先生からいただければと思ってるんです」
 「さあ、それはどうでしょう。邱永漢は人の書かれた文章を推奨するような文章は
 書かないんですよ」
 「そうですか。ときどき先生の推奨の言葉を刷り込んだ本を見かけることがありますけど」
 「本を出す側の人が勝手におやりになっているんですよ」 「そういえば以前、先生がある人に『ボクの名前を勝手に使っている』と先生が
 クレームをつけられる現場に立ち会ったことがあります。
 私はそこまで厚かましくないつもりですけど」
 「わかりました。今日、戸田さんが原稿をもってお見えになってお願いに見えたことを先生にお伝えします」
 「ありがとうございます。よろしくお伝えください」といって、私は邱永漢事務所を去りました。
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