| 第28回私が配属されたのは慢性的に赤字が続いている部門でした
 37歳か38歳の頃の私が自分との応答の中で明らかになったことは「外の風がピューと吹いてきて、緊張感を持って仕事をしないと
 脱落するような環境に自分を置きたい」とか
 「事業感覚の養成ができるようなところで働きたい」とか
 いうことでした。
 親会社の中にそうした場所がないというのであれば
 関連会社に出向するのも一つと考えました。
 『サラリーマン出門』が刺激剤になって、
 自分なりのマンネリズム脱出策が見えてきたことになります。
 いま、人材育成の世界で「キャリア開発」という言葉が使われています。働く側の人間自身が自分の「適性」や「持ち味」を認識し、
 仕事において「何をやっていきたいのか」を明確にし、
 その上で職業上の経験や能力開発についてのプランを作り上げ、
 その実現に向けて努力するというほどの意味です。
 私が30歳代の頃には、そういう言葉は使われてはいませんでしたが、
 私が目指したのは「キャリア開発」そのものだったのです。
 私は自分の希望を実践するため、自分の考えを自分の上司にも、また人事課長にも伝えました。
 そうしたら、41歳になったばかりの年に、
 建築関係のエンジニアたちがつくった
 事業部門に配属になりましました。
 私が配属された事業部は発足以来、慢性的な赤字状態がつづいているところでした。
 赤字が続きながら、組織が壊れなかったのは
 本業にそれを抱擁するだけの余裕があったからでしょう。
 ところが高度成長経済の終焉とともに、
 本業自体の力自体がだんだん弱まってきましたので、
 赤字状態が続いているような事業部門を
 そのまま放置しておけなくなっていました。
 ちょうどそういう時期に私が課長としてされたことになります。
 私は緊張感を持って仕事をしないと脱落するような環境に我が身を置くことを希望していたわけですから、
 希望にピッタリの職場だったというべきでしょう。
 が、そうだったといえるまでには、しばらく時間がかかりました。
 赤字が続いているような部署はムードが暗く、
 こういうところに来るように働きかけたのは
 失敗だったのかなと思うことが続いたからです。
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