| 第24回邱さん、曰く「55歳は老齢化時代の男の厄年です」
 邱さんが、選挙に落選し、どんな心境だろうと思って中央公論の経営特集号を手にしたら
 「落選もまた楽し」
 (『食べて儲けて考えて』《昭和57年》に収録)
 と題した邱さんのエッセイが掲載されていました。
 「苦しみや悲しみや悔恨や孤独を楽しみと思いだけの心の余裕がなかったら、 人生は長く生きるだけの値打ちがない」 という言葉で締めくくられ、ホッと安心したことを覚えています。それからしばらくして、選挙に出た56歳頃の体験を振り返る
 文章に出会うようになり、
 「選挙に出たのは、年をとることを意識しだしたことから生まれた迷いであり、55歳は人生80年時代の厄年です」
 という趣旨の評論に接するようになりました。73歳のときの作品『鮮度のある人生』(平成9年)で
 邱さんは書いています。
 「55歳になった時、私はふと年齢のことが気になりはじめた。自分が年をとったという意識はなかったが、
 もう若くはないんだと思った途端に心に迷いが生じた。」
 「私は長い間、敵対関係にあった国民政府と仲直りして、台湾にもよく帰るようになっており、
 台湾の経済発展のために私なりの努力をしていたが、
 日に日に勢力の強くなっていく中国政府の政治攻勢を前に、
 台湾の将来がどうなるか、悲観的になっていた。」
 「あの時点で、私にできることは (のちになって考えれば、自分勝手な、大へん飛躍した着想にすぎないが)、
 日本籍に移って、日本の政治家になり
 (たとえば、参議院の対外援資金援助をする場合、
 委員会の委員長になって)、中共に対して資金援助をする場合、
 多少の影響力を持ち、中共の台湾政策に口出しができることだと思った。
 ちょうど宝山製鉄所の建設のために、
 日本側が三千億円にのぼる資金援助を成立させたところであり、
 私の見方によれば、この資金はいずれ予定通りに返済できなくなり、
 中国側の立場は弱体化する筈だから、
 日本側の議員になれば、その分発言権が強くなると思ったのである。」
 男子の場合厄年は25歳、42歳、61歳です。邱さんはこのうち42歳のときと55歳が自分の厄年であったと回想し、
 特に後者の55歳は「老齢化時代の男の厄年だ」と書いています。
 「何で61歳でなくて、55歳かというと、定年が60歳とすれば、少々感度のよい人間なら、
 5年も前に手応えがあるのが普通だからであろう」
 というのが邱さんの解釈です。 |