第241回 (旧暦10月3日)
「1万円生活」と「自然保護」
何日か前に、「採集」という食糧生産手段は
縄文時代から連綿と継承されてきた
貴重な生活文化遺産だと書きました。
ところが最近では、自然保護という考えから、
この「採集」ということを
ヤミクモに忌避しようという風潮があるように思います。
そして、ひょっとすると、このコラムの読者の中にも、
「1万円生活」などのために
野生の植物を採取したりすることに対して、
そうした観点からの疑義を抱いた人もあるかもしれません。
そこで今日は、「採集」と「自然保護」についての仙人の考えを
紹介しておくことにしようではありませんか。
これまでも述べてきたように、
縄文の人たちは衣食住すべてにわたって
自然から採集することによって生活を営んでいたわけですから、
今流の自然保護の論理で言えば、彼らは間違いなく
「自然からの収奪者」にほかなりません。
しかし、生活のすべてを自然からの収奪に委ねるということは、
その対象となる自然環境が
永続的に「収奪可能」な状態に保たれていなければ
継続不可能であるということを忘れてしまってはイケナイのです。
つまり、その自然環境が回収不能なまでに収奪してしまったのでは
収奪者自身の生活も成り立たなくなってしまうということですナ。
たとえば卑近な例でいいますと、
山菜として人気の高いタラノメは、
1番芽が欠けると2番芽を出し、
2番芽が欠けると3番芽を出しますが、
3番芽まで摘み採ってしまうと、
その木はほとんど枯れてしまいます。
そのため、翌年も、その翌年も、
毎年ずっとそのタラノキの芽を摘みたければ、
その木を枯らさない範囲で毎年芽を摘まなければなりません。
このとき、われわれがタラノメを摘むのは
生活上の「楽しみ」にすぎず、
3番芽まで摘んで木を枯らしてしまっても、
われわれの生活自体にはほとんどダメージはありませんが、
生活のすべてを自然からの採集に頼っていた縄文人にとっては、
こういう採り方は自分たちの「死」を意味することになるのです。
もちろん、自然の本来の姿を熟知していた彼らが
そんなバカなことをするはずがありませんから、
彼らの採集生活の実態は、自然の回復力を前提として
「自然との共生型」採集生活であったことになるでしょう。
そうなると、「自然からの収奪者」であった彼らこそ、
実は、本当の意味での自然保護の実践者であったともいえるわけで、
だからこそ、これからの自然保護を考えていくうえでも、
彼らの採集生活と、そこで培われた数々の知恵を
生活文化遺産として大切にしていかなければならないと思うのです。
したがって、もし「採集」について問われるべき点があるとすれば、
それは「採集」という行為そのものではなく、
採集する人間の「姿勢」や「方法」でなければならず、
それを抜きにした自然保護論は
ナンセンスとしか言いようがありませんゾ。
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