第2071回
百年前の想像を絶する「言論封殺」
大正期・軍政弾圧下の時代に、
「大逆事件を告発し続けた、たった一人作家」=
沖野岩三郎の軌跡を追った
拙著近刊「大逆事件異聞――大正霊戦記――
沖野岩三郎伝」の話の続きです。
では、どんな大正、昭和前期の言論の封殺下で、
沖野岩三郎は捕縄捕縛されることもなく書き続けたのか?
その謎のポイントを「大逆事件異聞――大正霊戦記――
沖野岩三郎伝」から、告発長編小説とともに、
前後して事件の真相を綴った自伝随想
「生を賭して」について綴った箇所をさらに抜粋紹介します。
*
官憲の執ような魔手に怯えながら
ペンを執る日々の苦悩を自伝「生を賭して」の冒頭で、
たった8行だけ小さな活字で挿入して訴えている。
『千九百十年から十七年まで
私の一身にとりて恐怖の時代でありました。
先輩にして親友たる与謝野寛、同晶子の二氏は
此の八年間、常に私を慰撫奨励して下さいました。
私が苦しい思ひを懐いているときも、
悲しい事件に遭遇してゐるときも、
常に私の親切な味方となって下さった二氏に対し
謹んでこの小著を献じます』と。
こうした文章上の工夫も
官憲に一矢を報いるせめてものの抵抗だったろうが、
わが力の足りなさを、
亡き盟友・大石誠之助らに送る歌も残している。
生を賭して 為すべき事の 多かるに
わが説く道は たわごとに似る
それでも沖野は強権国家が仕掛ける
得体の知れぬ罠をかきわけ、かきわけ、
事件の公判に臨んでいる仲間たちを励まし、
出来うる限りのツテを頼りに助け出そうと奔走していた。
歌集「明星」「スバル」の主宰者である
与謝野寛・晶子夫妻と地元出身の歌人・
和貝夕潮(彦太郎)に頼んで弁護士を探した。
盟友の被告・高木顕明と崎久保誓一のためである。
ちなみに和貝夕潮は地元・新宮で
「濱ゆふ」という短歌雑誌を主宰。
沖野や大石はもちろん、東京から与謝野寛・晶子、
平出修といった歌人、そして作家の佐藤春夫、下村悦夫、
のちにマクロビオティック食養法の始祖となった
桜澤如一といった新宮出身の進歩派が
おおぜい寄稿していており、顔の広い歌人だった。
これが縁で、大逆事件の担当弁護士の
一人として奮闘したのが「スバル」の同人で
少壮気鋭の弁護士の平出修だったが、
事件終了後、平出自身、その暗黒裁判の不条理に怒り、
告発小説「逆徒」を書き下ろした。
幸徳秋水や大石誠之助が処刑されてから
3年後の大正2年のことである。
主犯の幸徳秋水を「秋山亨一」、
内妻で共犯の菅野スガは
「真野すゞ子」と名を変えて登場させるが、
掲載した月刊誌「太陽」9月号には
直ちに当局から発禁命令を受けた。
すでに明治42年(1909年)には新聞紙法が公布され、
内務大臣に発売禁止権が与えられていた。
どこの新聞社も出版社も
この事件に触れることはタブーとされていた。(略)
*
こんな言論思想の「冬の時代」を背景にして、
特別要視察人のハンデを背負いつつ、
朝日新聞紙上に登場したのが
拙著近刊「大逆事件異聞――大正霊戦記」の
主人公沖野岩三郎だったわけです。
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