元週刊ポスト編集長・関根進さんの
読んだら生きる勇気がわいてくる「健康患者学」のすすめ

第1927回
「祈りに満ちた心」(2)

敬愛する帯津良一医師から、
新刊本「いのちの力」という対談集が送られてきた――、

日本のホリスティック医学の先駆である帯津医師と
戦後12人目の千日回峰行を成し遂げたという、
比叡山の藤波源信大阿闍梨が
医療現場と修行で得た「死生一体」を語り合うという
異色の顔合わせの本だ――

「生きて、生かされる」という境地が
解き明かされているから
ガン患者ならずとも、この冬休み必読の一冊として推薦する――

今回の本で送られているいのちのメッセージが、
瞑想、修行という段階の底深くある、
「祈り」というキーワードだ――という話の続きです。
引き続き帯津医師による、まえがき「祈りに満ちた心」を
抜粋引用しつつ、
この本の「祈り」というメッセージを紹介しておきます。

       *

不動明王を前にして護摩を焚く
源信さんの迫力に圧倒されていたからです。
この迫力も偉業を成し遂げた人ならでは、のものです。
霊験あらたかなること間違いなしです。
医療者にとって、この霊験こそ大いなる魅力なのです。
医学は科学ですが、医療は“場”の営みです。

患者を中心に家族、友人、さまざまな
医療者が織り成す場の営みなのです。
それぞれの当事者が自らの内なる生命場を高めながら、
他の当事者たちの場に思い遣ることによって
共有する医療という場のエネルギーを高めながら、
その結果、すべての当事者たちが癒されて行く。
これが医療なのです。
内なる生命場を思い、
お互いの生命場に思い遣ることが、すなわち祈りであり、
共有する場の高まりが、すなわち霊験なのではないでしょうか。
だから祈りは医療に不可欠なものです。

しかも、この祈りは、ただひたすらに病の癒ゆることを願う、
現世利益といったものではなく、
アメリカの精神科医にして代替療法の
オピニオンリーダーであるラリー・ドッシイのいうように、
万物と一体となろうとする祈りに満ちた心のことなのです。(略)

        *

じつに、奥の深い興味津々の話ですね。
「祈り」をただの抹香臭い宗教の教義のように捉えるのではなく、
自分の身・魂・心の丸ごとのエネルギーを高めるパワー源として
捉えたとき、人生の希望も勇気も湧いてくると・・・
いっているのだと僕は思って読みました。
気功や食事と言った養生のほかに帯津医師が、日ごろから、患者に
「心のときめき」を大切にしましょうということばの実践が、
「祈り」の生活にあると思います。

いずれ、このコラムでも紹介することになるはずですが、
僕は今「大正霊戦記」と題して、母方の祖父・沖野岩三郎という
大正期の作家の半生を綴った350ページほどの
評伝ノンフィクションを書き上げたところです。(来春発売予定)、
100年前、無政府主義者の幸徳秋水以下12名が絞首刑になった
「大逆事件」という空前絶後の大事件がありまして、
そのとき奇跡的に検挙・投獄をまぬかれ、
以後軍閥政府の弾圧の中で、その告発小説を書き続けて、
大正期の流行作家に成り上がった数奇な人が沖野岩三郎なのですが、
この生死の狭間を乗り越えさせたパワーの源が
「祈りの文学」だったと評論家の辻橋三郎さんなどが
近代文学史の中で位置づけております。

いま再び、「祈り」というスピリチャル・パワーのキーワードが、
ただの宗教用語の範疇を超えて
注目されてきているような気がしてなりません。
あなたはどう感じますか?


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2007年12月6日(木)

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