第1699回
「安穏」の光明を掴む
いま、僕たちの日常に折り重なるようにして襲う、
得体の知れぬ「人生の不安」、「ぼんやりした不安」とは何か?
いま発売中の「いのちの手帖」第3号に
特別掲載させていただいた、
文壇の重鎮である安岡章太郎先生の随想、
「ぼんやりした不安」の話の続きです。
自らの持病であるメニュエル氏病の難病不安から説き起こして、
自殺した芥川龍之介の「ぼんやりした不安」から、
フランスの実存主義の哲学者であり
作家であるサルトルの名作「嘔吐」まで、縦横に筆を走らせ、
まさに、誰しもの心のうちに錯綜する「人生の不安」の正体を
浮き彫りにしようと試みた珠玉のエッセイです。
さらに、続きを抜粋紹介しましょう。
*
私は静かな夜、自分の耳の中に
凪いだ海のひろがつてゐる有様を想像する。
その海にぷかりと一ぴきクラゲのやうなものが浮かんで、
のんびりと星空を見上げてゐるのだが、
さういふクラゲのやうなものと自分自身が一体となつた心持は、
悪いものではない。
遥かなる太古、まだ人類が発生する以前、
水の中で暮らしてゐた頃に本卦帰りしたやうな気分になる。
しかし、いつたん、さうやつて浮き身をやつてゐる自分の耳の中に、
海の水が這入りこんだやうなことになると大変だ。
奥の方からゴーンと鳴り出して、
やがて耳がふさがつてしまふ・・・・・。
リンパ液がなぜ溜まりすぎるほど溜まつてくるのか、
これは医学では解明されてゐない。
「とにかくメニュエル氏病の発作では、
まだ死んだ人はゐないものですからね」と、医師はいふ。
「死ねば解剖して原因を突きとめることも出来るのですが、
発作の治まつたときには普通の状態にもどつてゐるので、
解剖しても何でリンパ液が溜つてくるのかを
調べるわけには行きません」
かういふことを言はれると私は、
自分が生体解剖の実験台にならないかと
相談を持ちかけられてゐるやうな気がするだけで、
何の慰めにもなりはしない。
しかし、おそらく体内にリンパ液が溜つてくるのは、
海の潮の満干と関係がありはしないか。
私たちの体も、一個の生きものとして地球の動きと
関連するものがあるのかもしれない。
さういへば、一番発作が起りやすいのは、
明け方の日の出る頃と夕方の日の沈みかかる頃だ。
それに季節の変り目、秋から冬、冬から春に移る頃もイケない。
もつとも、そんなことを考えてゐると私は、
暮れ方、近くの竹藪に集つて来るスズメの鳴き声が耳につき、
道ばたで遊ぶ子供たちの声がカン高くきこえてくると、
それだけで妙に不安になつてくる。(以下略)
*
このエッセイの続きに興味ある方は、
手にとって読んでいただきたいわけですが、
すでに、安岡さんのエッセイを読んだ人も、
いま一度、精読してみてください。
逃れられないと思われる人生の不安すら愉しむ、
そこから安穏の光明も見えてくる・・・
こうした人間という生命体の逞しさを
このエッセイから垣間見ることが出来るはずです。
さて、「人生=人間の生き方」に、二つの考え方があるとしたのは
たしか、ロシアの文豪・トルストイだったことを思い出しました。
●「生存」的な生き方=
一生を誕生から死までと考え、自分の幸福達成を目標とする。
●「生命」的な生き方=
一生は死を乗り越えた永遠のものと考え、
ここに真の幸福の達成があるとする。
トルストイは、前者を動物的幸福として否定し、
後者の「生命」的というか、
理性的な生き方を追い求めたわけです。
ちなみに帯津良一博士も
「いのちの手帖」第3号の巻頭言でこう書いています。
「死んでも自分はある。死後こそ本当の生なのだ。
この世はそのための助走路に過ぎない」――、
「いのちの手帖」は、ただの“治療の手帖”ではなく、
“人生の手帖”として座右に置いていただくと、
日常の安全や安心レベルを超える、
「安穏」の光明が掴めるものと思っています。
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