元週刊ポスト編集長・関根進さんの
読んだら生きる勇気がわいてくる「健康患者学」のすすめ

第1700回
「この世はいのちの助走路」

「『いのちの手帖』は、
私にとって“人生の読本”いや“こころの友”です。、
枕元において、繰り返し繰り返し読んで勇気をいただいています」

「前略、ごめんくださいませ。
関根さんが、お元気でいられることこそ私たちの宝物です。
ありがとうございます。『いのちの手帖』を、落ち込んでいる方、
勇気のいる方、心の痛みを耐えている方・・・
みなさんにも手渡すようにしております」
こうした共感の手紙や読後感想のメールを、
毎日のように、多くの患者のみなさん、ご家族の方から、
いただいています。ありがとうございます。

「いのちの手帖」は、ただの“治療の指南書”ではなく、
“人生の手帖”として座右に置いていただくと、
日常の安全や安心レベルを超える、
「安穏」の光明が掴めるものと思っている――
と書いてきましたが、
誌面を通じて、また、このHIQのネットワークを通じて、
「いのち」そのものにまとわりつく、
「ぼんやりした不安」を乗り越えて
いかに「安全と安心」ならぬ、心の「安穏」を掴むか?
そうした心のマッサージ・マガジンとして
「いのちの手帖」が、ささやかですが、、
「安穏」の光明を掴むことに役に立っているとすれば、
本当に嬉しい限りです。

前回、「人生=人間の生き方」に、二つの考え方があるとした
ロシアの文豪・トルストイの
「人生の幸福論」について言及しました。
●「生存」的な生き方=
一生を誕生から死までと考え、自分の幸福達成を目標とする。
●「生命」的な生き方=
一生は死を乗り越えた永遠のものと考え、
ここに真の幸福の達成があるとする。
トルストイは、前者を動物的幸福として否定し、
後者の「生命」的というか、
理性的な生き方を追い求めたわけです。

もちろん、誰しもが、雲や霞を食べて生きている
仙人や聖人ではありえませんから、長い人生の中で
何度も襲いくる肉体の痛み、
忍び寄る死の苦しみを誤魔化すことはできません。
「神のごとき作家」といわれた文豪トルストイにしても、
83歳にして、家出の末にロシアの寒村のさびれた駅長官舎で
悲しく息を引き取ったというのですから、
人生とは、幸福とは、単純には計り知れるものではありません。

とくに原因不明、治療不能を宣告されたガン患者ならば、
耐え難い不安の奈落に突き落とされて、
とても立ち上がれるものではありません。
ただ「ガンはあきらめない」
「ガンはがんばらない」と声をかけられても、
肉体の恐怖がもたらす、心魂の苦痛にまけしまうことでしょう。

しかし、ひとたび、日々の感動と心のトキメキが
己の肉体の危機すら乗り越えるエネルギーの源となる――、
自らの心魂を進化させることがいのちの源泉となる――、
こうした歓喜のパワーを感受し得たとき、
いっとき死の恐怖も和らぎ、
肉体的な痛みや心の苦しみからも
立ち直ることができるのではないか?
続いて、しなやかな勇気も湧き出でてくるのではないか?
この「危機を好機」に転ずる、ホリスティックで、
計り知れない生命体の進化こそ人間の特性ではないのか? 
他の生命体と違って、
理性で自己を認識できる人間の不思議なパワー、
幸福を求める進化とエネルギーの秘密がここにある――、
僕は、そう考えながら「いのちの手帖」を編集しています。

小誌の最高顧問である帯津良一博士も
「いのちの手帖」でこう書いています。
「養生を果たし続けていくと、時々、
内なる生命の場のエネルギーが溢れ出てくる。
そして、外界のいのちとぶつかる。
そこに直感が生まれて、
次の瞬間、生命の躍動が起って私たちは歓喜に包まれるという。
アンリィ・ベルクソンの考えである。
大いなるいのちの流れに身を
委かせながら内なる生命を溢れ出させ、
直感・躍動・歓喜を繰り返していくことこそ、
私たちが生きていくことではないだろうか」
(「いのちの手帖」創刊号・巻頭言)
「死んでも自分はある。死後こそ本当の生なのだ。
この世はそのための助走路に過ぎない」
(「いのちの手帖」第3号・巻頭言)――と。


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2007年4月23日(月)

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