第1114回
鏡と鑑
秋の夜長に、じっくりと読む本が少ない!
という話の続きです。
邱永漢さんの指摘ではありませんが、
テレビも雑誌も、いやいや、
書籍も、右へ習え?!?
「バカの鏡」と化してしまったのでしょうか?
鏡といえば、昔から
「歴史は鏡もしくは鑑(かがみ)」
であるといわれます。
ですから、平安時代の歴史物語には
『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』など、
「鏡」という名称が使われていることは、
高校の歴史の時間にならったことを
覚えているでしょう。
とくに、栄華を誇った藤原道長を
批判した歴史書といわれる
『大鏡〈おおかがみ〉』は(1100年ごろ)は、
権力者である藤原一族の業績を
ただ「スバラシイ」とへつらったわけではなく、
編者の頭で
きちんと歴史を批判して捉えているがゆえに、
「歴史を明らかに映し出す優れた鏡」
という意味があるのです。
学校の文学史の授業のようになりますが、
鎌倉幕府の歴史を書いた書物も
「吾妻鑑」と名づけられています。
この「鑑」という言葉には、
「模範」とか「手本」という意味があるのですね。
著名な歴史学者のエッセイなどを読んでいると
「歴史学とは、ただの事実の羅列や、
訓故注釈の学問ではいけない」
「歴史とは現代に生きる人々にとっての鏡なのである」
と、よく書かれていますが、
こうしたキーワードは、歴史学者に
向けられたものだけではないでしょう。
このドッグイヤーと呼ばれる
急速変化時代の「メディア」にこそ、
世の中の「鏡」=「手本」としての役割が、
急速に求められているわけで、
まさに、邱永漢さんの指摘のように
世間に睥睨する、
「バカの鏡」と化しているのではないか?
――、と、つくづく思います。
僕は、65歳を過ぎて、
少し、アタマがボケ老人に
なってきたのでしょうか?
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