第57回
温泉に「いい湯」も「悪い湯」もない
「県庁を辞めて、旅館に入る」
そう言って平成9年3月に、
24年間勤めた県の職員を辞めた友人がいます。
当時、交際していた若女将が旅館の建て直しに苦労している姿を
「黙って見ていられなかった」と言います。
18代続いた老舗旅館に跡継ぎがいないというのも、
決心を固めた理由でした。
四万(しま)温泉「積善館」の創業は、元禄4(1691)年。
本館は日本に現存する最古の湯宿建築物として、
群馬県の重要文化財に指定されています。
また昭和5(1930)年建築の大正ロマネスク様式を用いた
モダンな湯殿「元禄の湯」も国の登録文化財および
県の近代遺産に登録されています。
最近では、宮崎駿監督のアニメ映画『千と千尋の神隠し』の
イメージモデルになった旅館としても脚光を浴びています。
「温泉は生き物だね。赤ん坊と同じで、手をかけて、あやして、
面倒をみてやらないと、人間を入れさせてはくれない。
人間が温泉に合わせなくてはならないんだよね」
と、19代目を継いだ黒澤大二郎さんは湯舟の中で語り出しました。
この日、私は新聞の取材で同館を訪れ、
「どうせなら久しぶりに裸の付き合いをしよう」と彼を誘い、
湯に浸かりながらインタビューをすることにしたのです。
「320年続いた老舗旅館には、
歴史と文化、名声、地位といった良い面もあるけど、
反面、伝統に縛られ過ぎてしまい、
なかなか新しい考え方や経営ができないというマイナス面もあるんだ。
今は、全国の老舗旅館が過渡期を迎えていると思うよ」と、
彼らしい発想で新しいことへチャレンジを始めました。
主人自らが案内役となって宿泊客と一緒に館内をめぐり、
積善館の歴史や宮崎アニメのエピソードを交えながら紹介する
「歴史ツアー」や「アニメツアー」が人気を呼んでいます。
最後に彼は、こんなことを言いました。
「温泉のことを『いい湯』とか『悪い湯』と言う人がいるれど、
それでは温泉が可哀相だ。
悪いのはお湯ではなく、利用している人間のほうなんだから。
湧き出した温泉を最良の状態で湯舟に注ぎ込めるよう、
お湯の立場になって考えることが湯守(ゆもり)の役目だと思う。
人間にそれができないのなら
『鳥や獣たちに温泉を返しなさい』と言いたいね」
旧知の仲で、ともに温泉を愛する者同士。
いつまでも、熱い湯談義が尽きませんでした。 |