服飾評論家・出石尚三さんが
男の美学をダンディーに語ります

第835回
おしゃれは心を裕(ゆた)かにする栄養です

今回は、日ごろご愛読下さっている
HiQで「台湾をで築こう、日僑の時代」の執筆者、
石原 新 様から
「おしゃれの根源を考えてみよう」について
メールをいただきましたので、
そのご回答を掲載させていただきます。


■ 石原 新 様にいただいたメール

件名:学生服着ていました

出石様 初めまして。
いつも楽しくコラムを拝見しています。
邱さんのサイトで
「台湾で築こう 日僑の時代」を執筆しております、
石原でございます。

本日の出石さんのコラムで
学生服を採りあげられていたので
懐かしくなってしまい、筆をとりました。

私は慶應普通部(中学校)から
大学卒業までの10年間を学生服を着て過ごしました。
自分たちでは「制服」、と呼んでおりました。
今から15年〜25年前になります。
今でもあるかわかりませんが、
「原洋服店」という
義塾出入りの仕立て屋さんが三田にあって、
いつもそちらで用意してもらっていました。

中学校ではペンのマークがついた
帽子着用が義務付けられ、
指定の黒鞄を持って日吉まで通っていました。

高校の時は、
プラスチックで取り外しのできる襟カラーを
わざとつけなかったり、第一ボタンを外して
通学したりしているところを先生に見つかり、
お目玉をくらっていました。

大学では、體育會(運動部)所属の学生は
制服着用を義務付けられていました。
キャンパスで見かけられた学生さんも、
或いはそうだったかも知れません。
学生服としては
極めてオーソドックスなデザインだったと思いますが、
ダブルの裾の折り返しを何cmにするかとか、
下のズボンを濃いグレーのもので合わせたりとか、
ちょっとした工夫をしていた記憶があります。

制服の金ボタンには
校章であるペンのマークがあしらわれていましたが、
中学・高校・大学で意匠が違いました。
どこの学校に通っているのか一目瞭然なので、
街中では少なからず
注目されているような意識がありました。

コラムでは、人間性の魅力で
フクを自在に着こなすのが趣味の良い男、
と書かれていましたが、
私の場合はその手前で、
慶應の制服といういわば
「ブランド」服を身に纏うことによって、
少なからず品性を鍛えられた気がします。
問題は制服を着なくなった今、
私服でいると総経理とは見てもらえないことですが・・・。

これからのコラムも楽しみにしております。
失礼いたしました。

石原新


■出石さんからのA(答え)

ご丁寧にもお便りを下さり
ありがとうございます。
また日頃からお目通し下さっていることにも、
重ねて御礼申上げます。

実は私、今背広の歴史を調べていることから、
慶応義塾図書館へ足を運んだのです。
慶応3年(1865年)に
福澤諭吉が『西洋衣食住』を著わし、
明治3年(1870年)には
古川正雄が『絵入智恵の環』を書いています。
古川正雄は本名、岡本周吉で
諭吉先生の門下生第1号という関係です。
背広の歴史を研究するには
この2冊は必要不可欠でもあり、
その実物を閲覧しようと思ったのです。

さすが諭吉先生の創立された慶応義塾だけに、
学校関係者や図書館の人に至るまで、
たいへん親切に接してくれました。

古い話ばかりになりますが、
明治5年(1872年)に諭吉は
仕立局を開いて洋服づくりをはじめるのです。
この仕立局の担当者となったのが、
やはり門下生であった高橋岩次という人物。
この高橋岩次についての資料も
なにかあるのではと期待したのですが、
残念ながら探せませんでした。
後にご子息が洋服店を開いたことまでは
分っているのですが。

それはともかく慶応義塾仕立局が
現在の丸善洋服部なのです。
明治はじめのこのあたりの物語には、
興味がつきません。

では福澤諭吉はなぜ仕立局を開いたのか。
「これからの洋学を学ぶためには洋服を着るべきである」
と考えたからなのです。
何を、どんなふうに着るかも、
生活習慣のひとつであって、
着用者に影響を与えないはずがありません。
<< 人は制服通りの人間になる。
  そしてたいていの服は制服である。>>
とナポレオンが言ったようにです。

私たちは自分の着る服装が、
それを見る人に
なんらかの影響を与えることを知っています。
けれども実際にそれ以上に、
自分自身が静かに、深い感化を受けているのです。

人は誰でもより健康であるために、
食生活になにがしかの投資をしています。
同じようにより裕(ゆた)かな心であるように、
ある程度は衣生活にも
投資をするべきなのでしょう。


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