第29回
日本酒の、繊細な温度
もう10年以上前になりますが、
父が上京したとき
日本酒好きの父のために
居酒屋へ連れて行ったことがあります。
私はまだ学生だったので
渋い赤提灯ではなく、大手のチェーン店でした。
最初、それでも喜んでいた父が
豹変してしまったのは入店後間もなくのこと。
日本酒のぬる燗を頼んだら、
それが、10分経っても出てこない。
グラスや盃の空いた状態を嫌う父は
次第に苛立ち始めました。
……イヤな予感。
ヒヤヒヤした私が店員をせかし、やっと現れたのは
お銚子を素手で持てないほどの沸騰した日本酒。
即、激怒です。
父は「こんなものは飲めない」と店員を怒鳴りつけ、
私は泣きたい気持ちになりました。
大箱のチェーン店なんだし、
気に入らないにしても、人に対しての言い方ってものがある。
(ちなみに父は今、深く反省していますが)
でも、酒どころ秋田のDNAを受け継ぎ
大人になった私はこう思います。
日本酒を扱うのなら
それに細やかな愛情をもたなければ、駄目です。
日本酒は、冷やでも燗でも飲めるお酒ですが
微妙な温度で信じられないくらい
味わいが変化する
生き物のようなお酒でもあります。
そのせいか、温度の表現にも
じつに繊細な言葉が授けられています。
冷やなら、
雪冷え(5℃)、花冷え(10℃)、涼冷え (15℃)。
一般に常温と呼ばれるのは
「室温」のことではなく15℃くらい、つまり
涼冷えの温度です。
お燗にも、日向燗(30℃)、人肌燗(37℃)、
ぬる燗(40℃)、上燗(45℃)、
熱燗は50℃で、
55℃になると飛びきり燗と言います。
逆に5℃より低いと、雪しずくと呼ぶそうです。
なんと美しいネーミングでしょう。
私がこの呼び名を知った秋田の居酒屋では
お燗を温度計できっちり測って
つけていました。
と言っても、私だって
人肌燗とぬる燗の微妙な温度差を、
飲んだだけで言い当てられる自信なんか全然ありませんが
これならわかります。
きっちりとした仕事で供される日本酒は
間違いなく、どんぴしゃにおいしい。
逆に、雑誌で紹介された人気の銘酒をズラリと掲げておきながら
お燗を沸騰させてしまう居酒屋もある。
その日本酒を手塩にかけて造った杜氏、蔵人、米を作った農家が
こんな風に飲まれていることを知ったら、と考えると
やっぱり腹が立つってもんです。
酒造りの最後の工程は
店の主人の、そんな想像力と愛情に
懸かっていると思うのです。
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