中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第四章 揺銭樹 - かねのなる木 -(3)

その2

翌朝、出勤する前に、例の宿に立ち寄ると、
廊下で昨日の女に出会った。

「あなたのお友達ってずいぶん変わった方ね」
彼の顔を見ると、女はいきなり言った。
「どうして」
「だってなかなか洋服を脱ごうとしなかったくせに、
横になると、いきなり私をつかまえてキッスするじゃないの」
意外な秘密を聞かされたような気がした。

「たった一度だったけれども、でもとても嬉しかったわ。
だってこれまでいろんな人と接して来たけれど、
キッスしてくれたのはあの人がはじめてですもの。
私、すっかり好きになってできるだけのことをしてあげたのに、
朝になると時間ばかり気にして、
一番の渡し船が出る時間になったら、
とめるのもきかないで、さっさと帰ってしまったわ。
今度会ったら、また来るようにおっしゃってね」

まさか水汲みの仕事を気にして帰ったのだとは言えなかったので、
春木は笑って頷くばかりである。

次の週に、大鵬がまた尋ねて来たので、
この間はどうだったと聞いたら、
彼はほかのことにはなにもふれなかったが、
「キッスってつまらないものだね。
映画で見ていると、二人とも陶然としているから、
どんなにいいものかと思っていたんだが、
すっかりあてがはずれてしまったよ」

大鵬はその後も時々やって来るようになったが、
老李はさっぱり姿を見せなくなった。
茶を載せた汽船は刻一刻とカサブランカに近づきつつある。
老李の生命ももう旦夕に迫ったようなものだ。
同じ船に乗っている以上、
自分の生活もしだいに終りに近づいているのかもしれない。
しかし、いまの自分にはやがて落ちかかってくるかもしれない
災難を避けようとする気はない。

「皆、僕がやったことなのだから、
君に迷惑のかかることはない」
と老李は言う。
あるいはそのとおりかもしれない。
しかし、かりにそうでなくとも、なにを驚くことがあろうか。
驚くのは人間がまだ人生に未練をもっているからだ。
やがては幸運が自分を訪れるかもしれない
という希望をもっているからだ。
生きる勇気さえもはやたいしてない人間にとって
災難がなにであろう。
人間の運命はなるようにしかならないものではないか。

いまの彼にとって気にかかることといえば、
それはリリのことだけだった。
自分が失業すれば、
リリが生活に困ってしまうであろう。
リリを困らせることは自分の本意ではない。
もしそうなったら、リリと別れることにしよう。
リリは再びもとの古巣へ戻って
誰かほかの男をつかまえればいいのだ。
あんな気のよい女だから、
そのうちにいい男でも見つけることができるだろう。
広い世界には捨てる神があれば、拾う神もあるはずだ。

そう決心すると、矢も楯もなくリリの顔が見たくなった。
彼はいつもより早く事務所を出ると、
渡し場へ向かった。
リリがクリーム・パフを食べたがっていたことを思い出した彼は、
途中で菓子屋によって箱にいっぱい詰めてもらった。

それを小脇に抱えて天星碼頭から渡し船に乗ると、
九竜半島へ渡った。
九竜側の碼頭のすぐ右手に大きな時計台があり、
広東と香港を結ぶ広九鉄道の始発駅がそこにある。
中共の統治する大陸が落ち着いてくるにつれて、
難民の流入はほとんどとまったが、
それでも弾圧の対象になった反動資本家や
封建地主がいろんな手段を選んで香港へ脱出してくる。
そうした没落階級にとって、
香港は最後にのこされた唯一の天国だそうだ。

家に帰りつくと、珍しく来客があった。
三十四、五になる痩せた男で、
その傍で五つぐらいの女の子が、
キャンデーをさかんにしゃぶっている。
いきなり春木が入って来たのを見ると、
男は狼狽して椅子から立ち上がった。

「私の姉の主人ですの」とリリは言った。
しかし、男の様子からして、
たぶん、彼女自身の良人であるに違いないと春木は感じた。
男は見るも哀れなほどあわてて、女の子を引き寄せると、
すぐに出て行こうとした。

「まあ、いいじゃないですか。
ゆっくり飯でも食べていったら」
「いえ、まだ用事がありますから、いずれまた改めて」

貧乏臭い顔が、薄よごれのしたシャツの上で泣き笑いをした。
やつれてはいるが、首すじも指の先も、
箸よりも重いものを持ったことがないくらい繊細で、
顔にもどこか苦労を知らない少年時代の面影がある。
おそらく香港へ来るまでは、
生活の心配などしたこともない男であろう。

リリに送られて玄関まで出て行った父と子は、
階段の所まで下りてから後ろをふりかえった。

その時、突然女の子が、
「さよなら、お母さん」と叫んだ。





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2012年7月20日(金)

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