第四章 揺銭樹 - かねのなる木 -(3)
その1
春木が事務所の二階にいると、ある日、大鵬が訪ねて来た。
大鵬は事務所の立派なのにまず驚き、
春木の坐っている机の大きいのにもう一度びっくりした。
「たいした出世をしたもんだな」
「そうでもないさ。
なんといったって、僕はただの傭人にすぎないんだからね」
それをどう勘違いをしたのか、
「もう予防線を張っているのか、
今日は金を借りに来たんじゃないから心配するなよ」
「べつに心配していやしないよ」
大鵬は去年と同じつぎのあたった上衣を着ており、
裏返しにしたワイシャツの襟がこれまた切れている。
馬票にはまだ当たっていないに違いない。
「お茶の商売は難しいと聞いていたが、結構商売になるのかな」
「まあ、このとおりどうにかやっているよ」
「うむ」と大鵬は唸った。
「やっぱり老李はたいした男だな。
きっといまになにかやらかすと思
っていたが、とうとう実現したな」
大鵬は春木がのしいかを売ってつかまえられた時に
老李に毒づいたのをきれいさっぱり忘れている。
とすると、やはり老李の生き方のほうが正しいのかもしれない。
「君たちがバラックを出てから、とても淋しくなったよ。
最近、また台湾からひとりやって来たからいいようなものの、
ひと頃は話の相手もいなくて困った」
「ほォ、どんな男だ?」
「台北で、時計屋さんをしていたとかで、
何でも共産党のレッテルを貼られてつかまりそうになり、
すんでのところを逃げて来たんだそうだ。
鄭という名前の奴だが、話のわかるいい男だよ」
「そりゃよかったな」
「いま、僕と一緒に水を汲んでいるんだが、
彼奴の話を聞いていると、台湾はいよいよもって
人間の住むところじゃなくなったらしいぜ。
やはり一日も早く共産主義になって、
蒋介石を追っ払わなくちゃ台湾人が助からんね」
「おやおや、君もだいぶ洗礼を受けたらしいね」
「そうでもないさ。
でもとにかく、しっかりした信念をもったいい男だよ」
「そんなに信念のある男なら、なぜ中共に行かないんだろう」
「いま、上海にいる友人に連絡している最中で、
そのうちに行くそうだよ」
と大鵬は答えた。
「じゃ君も一緒に行ったらいいだろう」
「うん。僕もそれを考えているところだ。
君のようにうまくチャンスをっかまえたら、僕だって
行く気はしないんだが、
どうもなかなかそんなチャンスには恵まれないらしいからね」
「そう不景気なことを言うなよ。
それより今夜は久しぶりだから
一緒に夕飯でも食って女遊びでもしよう」
「いや、女なんか…」
ふと見ると、大鵬は耳の根まで真赤にしている。
春木はむらむらと悪戯気を起こした。
そして、今夜はどうしても大鵬に女遊びを教えてやろうと思った。
大鵬が一日に八粁の道を走って
他人の家の水運びをするようになってから
これで足かけ四年になる。
そんなにして月にわずか十八ドルしか稼げないこの男に
一晩五十ドルの豪遊をさせてやろう。
そういえば、二十八歳になっても
大鵬はまだ童貞を守り続けている。
自分ではそれを誇りにしているようなことを言っているが、
本当はそれほど純情な男でもあるまい。
もし路上で一枚の小切手を落とさなかったら、
この男の運命は全く違ったものであったかもしれない。
かつて一度でもそんなことを考えてみたことがあっただろうか。
それを思うと、この男に絶望を感じさせずには
おられない衝動が湧いてくるのだった。
「俺たちのような年になって、
まだ独身だと言ったら、女に笑われるぜ」
「そんなこと知っているよ」
はにかみながら大鵬は答える。
「それならいいが、独身の男を女が喜ぶと思ったら、大間違いだ。
だから、あんた、どうして浮気なんかするの、と聞かれたら、
僕はいつも、うちの女房は技術が悪くてね、
と答えることにしている。
そうすると女はすごく喜んで、
とっておきのサービスをしてくれるぜ」
その夜、春木は厭がる大鵬を引っ張るようにして
暖昧宿に連れて行った。
女を二人呼んで好きなほうを大鵬に選ばせた。
二人が部屋に入ると、
春木はもうひとりを連れて他の部屋へ行くふりをして、
そのままボーイにあとを託して家へ帰ってしまった。
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