第三章 海の砂漠(2)
その3
「つまり貴様のような男が出世する世の中と言いたいんだろう。
貴様は知恵者だからな」
「僕を皮肉る前に、飲屋で釣銭を間違えなかったか、
宿屋の床の下にも落ちていなかったか、探すべきだよ。
いきなり殴りつけちゃ女が可哀そうじゃないか」
「可哀そうなのはこの俺だ。畜生、腐っちゃうな」
「しかし、とにかく、暴力は適用せんよ。
どうしても殴らずにいられない時は、
テーブルでも叩くんだな」
「面白くもねえ」金竜は握った拳で
もう一方の掌を叩き叩き言った。
「おい春木。映画でも見に行こう。
明日からまた仕事だから、今日は一日気晴らしをするんだ」
「俺は行きたくない。誰かほかの奴でも誘って行けよ」
素気なく断わられると、金竜はべつに感情を害した様子も見せず、
一人でのっそり出て行った。
その後ろ姿を見送ると、老李は意味ありげな笑いを浮かべながら、
春木をふりかえった。
「彼奴は根っから労働者にできた男だ。
せっかく、いい男をつかまえたんだから
奴さんから搾らんという手はないよ」
「しかし、あれであのとおりなかなか細かいんだ。
けちで腕力が強いときているから処置に困るよ」
「そこのところは頭を働かせるんだ。
金がとれなければ、海老をとればいいじゃないか」
春木はびっくりして思わず顔をあげた。
金竜と一緒に仕事をするようになった彼は
老李が金竜に近づくのを警戒し、
自分も知らぬ顔をきめこんできたのだが、
老李は見るところはちゃんと見ている。
じっと老李に睨みつけられると、春木は嘘が言えなくなった。
「そんなことができるものか、
だいいち小さなボートの中にはかくそうたって
かくす場所がないじゃないか。
かりにかくすところがあったとしても、
まさかひとりだけあとにのこって持って帰ることはできんよ」
「じゃね、海の中へ袋か網に入れてぶらさげておいたらどうだ?」
「だって海の中からぬっと出て来るんだから、
見つかったらおおごとだ」
「出て来るといったって、まさか舟の真下に出たりしないだろう」
「うん、そりゃそんなことはない。
たいていは何米も先のほうにぴょっこり浮かんでくる」
「舟に上がる時は舟尾から上がるんだろう?」
「まあ、そうだ」
「それなら舟首のほうへぶらさげておくんだ。
君たちが引き揚げた後、僕がとりに行ってやろう。
その代り儲けは折半だ。な、いいだろう」
それでもまだ二の足をふんでいる春木を老李は盛んにたきつけた。
「要領よくやるんだ。
どんなことだって危険は伴うものだよ。
海中にもぐっているほうが危険率は大だが、
じゃ舟の上にいるから絶対大丈夫かといえばそうでもない。
とにかく、おっかなびっくりじゃ、
一等賞はとれないぞ」
結局のところ、
理屈よりも欲に屈服したというべきであろうか。
この妙案にはさすがの金竜も気がつかなかった。
舟の上に這い上がってくると、時々首をかしげて、
「今日はずいぶんとれたような気がしたが、
まだこれっきりかな」
そう言われると春木は内心ひやひやした。
ごまかすといったところで、
時々、せいぜい十斤かそこいらで
しかも利益は老李と折半だから
神経を消耗するわりには収穫の少ない仕事だ。
はじめのうちは一日仕事をすると
精魂尽きはてて歩くのさえ大儀だった。
何度やめようと思ったかしれないが、
そのたびに老李がうしろから突っかえ棒をした。
「こんな絶好のチャンスをみすみす逃がす法があるものか。
僕に舟が漕げたら、君と代わってもいいんだが、
なにしろ君のように海岸に育ったんじゃないし、
しかも金竜の奴は僕に好感をもっていないらしいからな。
とにかく水汲みをしたり、
物売りをしたりするよりはどれだけいいかわからん。
いまのうちに少し貯めておけば
あと当分は籠城しても大丈夫だよ」
おそらくこれは老李の本音であろう。
今日の売上げはこれこれだったといって
その半分をくれるが、正確な重量を量っているわけでないから、
いつも春木はだまって受け取るよりほかない。
何ら労せずして漁夫の利を占めている。
そんな老李を思い出すたびに春木は
地団太ふんでくやしがる。
こんなことなら、いっそご破算にして
老李も自分も一文の収入にもならないほうがましだ。
だが、そうなると今度は金竜一人が得をしすぎる。
それも癪だ。
金は欲しいが、考えてみれば、金ぐらい憎たらしいものはない。
その金に翻弄される人間ぐらい浅ましいものはない。
こんな苦しい思いをして作った金をせっせと貯めたところで、
どうせ大資本になる見込みがあるわけでなし、
洋蘭の栽培をする元手にだってなるものか。
金竜の影響を知らず知らず受けたのか、
それとも神経の極度の緊張の結果か、
春木の気持がしだいにすさんできた。
ポケットの中に金が入っていると妙にいらいらした。
最近では金竜に映画や女遊びを誘われても、
春木は厭とは言わなくなった。
遊びの金を使い果たした金竜のほうが
逆に彼を探してまわるようなことさえある。
「お前もずいぶん豪傑になったなあ」
金竜は感嘆の声をあげる。
そんな時、春木は狡そうな笑いをかみしめながら、
「これも皆、貴様の薫陶宜しきを得た結果さ」
「まあ、いいさ。
くよくよするより愉快に暮らそうじゃないか。ハハハ…」
あんぐりあけたその口の中へ、
春木は爆弾でも投げ込んでやりたかった。
爆弾と共にこの男が木っ葉微塵になれば、
そのほうが人生はどんなに愉快かしれない。
少なくともくよくよ生きている海底の伊勢海老どもは
大喜びをするだろう。
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