中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第三章 海の砂漠(2)

その2

とうとうある日、彼はいままでに
一度もやったことのないことをやってみる気になった。
いつものように、
海からの帰りに酒屋に入って飲んでいた時のことである。
金竜がしたたかに酔っ払って便所に立った隙に、
春木は椅子の脇においてあった金竜の上衣のポケットから
素早く十ドル紙幣を一枚抜いて自分の懐中へねじ込んだ。

彼にしてみれば、奪われたものを
取り返すだけのことにすぎないと思うのだが、
さすがに胸がどきどきして落ち着きを失ってしまった。
やがて、便所から戻った金竜は彼の顔を見るなり、
「どうした?莫迦に顔が蒼いじゃないか」
「む、どうも気分が悪いんだ、飲みすぎたらしい」
「そうか。そいつはいかん。
どこか近所の宿屋に行って横になるんだな」
「いや、家へ帰ることにする」
「家へ帰ってどうするんだ?
老李と尻つきあわせて寝たってはじまらんじゃないか」
「でも帰るよ。急に帰りたくなった」
春木がそう言うと、金竜もしいてとめようとはしなかった。

「ひとりで大丈夫か。なんなら送って行くぞ」
「いや、要らん」
まだ飲みたりないらしい金竜をのこして、
春木はひとりで渡し船に乗った。
海の風にあたると、
上気した心の興奮が少しずつひいてきた。
自分はなにもびくびくする必要はないはずだ。
泥棒したんじゃなくて泥棒されたのを取り返しただけのことだ。
しかし、それにしても彼奴はどうして
こうも明日を怖れぬ男なのだろうか。
身体を張りさえすれば金は無尽蔵に
次から次へと湧いてくると思っているのだろうか。
いくら頑丈な男だって、稼ぎのない季節もあれば、
病気をすることもある。
そんな時はどうするつもりだろうか。
少なくとも自分にはちょっと真似のできない剛胆さだ。
それを思うと自分がいっそう貧弱な男に見えて、
新しい自己嫌悪が心の底から湧き上がってくるのだった。

ところが、その翌朝、
一文無しにならなければ決して戻って来ないはずの金竜が、
のっそり帰って来た。

「畜生、昨夜の女郎にいっぱい食わされた」
春木の寝ころがっているベッドの縁に腰を下ろすと、
金竜は言った。

「俺が酔払っている間に枕探しをやったに違いねえ。
今朝帰りがけにポケットの中を探したら、
十ドルたりなかったんだ」
それを聞くと、春木の胸が急に激しく動悸を打ちはじめた。
それを相手に悟られないために
彼はさりげない様子をよそおわねばならなかった。

「どうしてまた、女郎の仕業だってことがわかるんだ?
盗むなら全部盗みそうなものだが、
昨夜は相当酔っ払っていたから途中で落としたんじゃないか」
「いや、俺は道で落とすようなへまはやらん。
どんなに酔っ払ったって懐中にいくらあるかは
ちゃんと覚えている。
全部盗られればまた話は違うが、
一枚抜いたくらいならわかるまいと考えるのは
いかにも女郎らしい手口だ。
癪にさわったからぶんなぐってやったよ」
「ヘェ。それで向うは黙って引っ込んだのか?」

「それが引っ込まないんだ。
金を盗んだくせに、逆に食ってかかってきてさ、
警察につき出すのどうのと大騒ぎをしやがった。
おかげでもう十ドルまきあげられてしまったが、
香港の淫売の図図しさったらない」
心からいまいましそうだった。
笑っていいのか、泣いていいのか、春木は応対に因った。
怖い者なしのように思えてもこの男は警察が苦手に違いない。
でなければ、叩いたって金を出すような男ではない。
しかし、この男から金をとるのが不可能なことだけは、
これではっきりしたのだ。

「君はまだしらんだろうが、どんなに理屈が通っていても、
香港じゃ先に手を出したほうが負けだよ」
傍で聞いていた老李が突然話の中へ割って入った。
金竜は怒った眼つきになって相手を睨みつけた。

「いいことはいいこと、悪いことは悪いこと。
悪いことをやる奴をぶんなぐってなぜ悪い?」
「悪いも悪くないも、法律がそういう具合にできているんだ。
もしそうでなければ、
カの強いものの天下になってしまうじゃないか。
文明社会とは人間が腕力によらずに
知恵で勝負をつける社会のことだ」
「ふん」と金竜は鼻先でせせら笑った。





←前回記事へ

2012年7月7日(土)

次回記事へ→
中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ